だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
《ローマの信徒への手紙8章35〜39節》
東日本大震災・原発事故から6年
今年もイースターを迎えました。6年前に石巻の教会に赴任して以来、受難節からイースターへと向かう季節は同時に東日本大震災・福島の原発事故を思い起こす季節でもあります。
震災から6年が経ち、目に見える形での街の復興は進んできました。私が仕えている教会の周りにもマンション型の災害公営住宅が2棟建ち並び、新しい店もでき、街の様子は日に日に変わってきています。
しかし、その一方で、なお仮設住宅で暮らしている方々が大勢おられますし、愛する人を失った悲しみを抱えておられる方もおられます。原発事故により困難を強いられている多くの方がいます。人々の心の復興にはまだしばしの時が必要です。
この6年の間にも熊本の地震や水害など多くの災害が起こりました。それらの災害が起こる度に、私たちを突如として襲う苦しみや悲しみ、困難があることを思わされます。
救いはどこに?
けれども、こうした中にあって聖書の御言葉は私たちに語り続けます。それは神が私たちを愛し、キリストを通して救いを与えてくださったという福音です。私たちはどこまでもこの神の愛から引き離されることはないのです。パウロはこう語っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(35節)。
ここに挙げられている一つ一つは、パウロが伝道者として実際に経験した苦しみや危機でもありました。パウロの伝道者としての歩みは決して楽な歩みではありませんでした。むしろ伝道者パウロを待ち受けていたのは苦しみや痛みの連続でありました。
私たちにとって、もっとも大きな苦しみは何でしょうか。先日、祖父母の家を整理していたら、十数年前に亡くなった祖母が愛用していた一冊の聖書を見つけました。その聖書を何気なくめくっていると、その中にしみのついた一枚のメモが挟まっており、そこには次のように記されていました。「人間が本当に苦しむのは、苦しみそのものではなく、今自分が落ち込んでいるところの究極的な苦しみに解決を与えるもののない苦しみである」。
祖母は何かの本の言葉か、いつかの礼拝で聞いた説教をメモして聖書に挟んでいたのでしょう。祖母の書いたメモによれば苦しみの出来事そのものよりも、それに対する解決を見出すことができない、そのことこそが究極的な苦しみであると言います。確かにそう思います。またパウロもこう語っています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7・24)。
このパウロの問いは、罪の結果、死に定められた苦しみに対して、根本的な解決、救いを与えるのは誰なのかという問いです。このパウロの問いは、同時に私たち自身の問いでもありましょう。
キリストの愛から引き離されることなく
この問いにパウロは自ら答えます。誰も、そして何もキリストの愛から私たちを引き離すことはできないのだと。私たちの苦しみに解決を与え、救いを与えてくださるのは、イエス・キリストなのだと。むしろ、イエス・キリストはそれらのものからすでに勝利してくださっている。イースターの出来事は私たちにキリストの完全な勝利を告げる出来事なのです。
主イエスが十字架に架けられたとき、弟子たちは絶望の淵に立たされました。もはや、この世界は悪の力に支配されてしまったのではないか、神は自分たちを見捨てたのか、神の愛とは何であったのか、自分たちが信じていたことは何だったのか、様々なことが心の中を駆け巡ったことでしょう。
そして、主イエスの十字架を前にして、主イエスのもとから逃げ出してしまった自分の罪深さと弱さに直面させられました。あの時、なぜ自分は逃げてしまったのだろうか。時間を巻き戻すことができたなら…。自分の無力さを責めるほかない、そのような状態であったかもしれません。
しかし、時を戻すことはできません。愛する主イエスの死に整理をつけられないまま、自らの弱さと罪深さに苛まれながら、3日目の朝がやってきました。主イエスの墓は空っぽでした。主イエスは確かに復活なさったのです。
神は、弟子たちを見捨てたのではありませんでした。むしろ、キリストにおいてより深く愛してくださっていたのです。彼らは、神の愛、キリストの愛から引き離されるどころか、より強くその愛に結ばれていたのです。主イエスがすべてのものに勝利してくださいました。弟子たちの、そして私たちの苦しみ、悲しみ、弱さを引き受け、罪と死に打ち勝ってくださいました。
「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 わたしは確信しています。(中略)わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(37〜39節)。
私たちは分かちがたくキリストに結ばれており、神のものとされています。そして教会という神の家族が与えられている。どのような力もそこから私たちを引き離すことはできません。
震災によって悲しみに覆われた地で、キリストと出会い、洗礼へと導かれ、キリストの体なる教会に結ばれる人々が起こされています。そして、新たにキリストの体なる教会がいくつも建てられています。それらの出来事を通して、復活の主が確かにこの地のただ中に立っていてくださることを思います。何が起ころうとも私たちは、キリストの愛、キリストを通して示される神の愛から引き離されることはない、むしろ私たちを御自身の愛の内に招いてくださっています。
イースターを通して今一度、この恵みに立ち帰りたいと願います。今日も、そして明日も私たちは、キリストの愛と復活の命に生かされているのです。(石巻山城町教会牧師)