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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4857・58号】メッセージ 「余命」ではなく「与命」 雲然 俊美

2017年3月25日

すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。《ヨハネによる福音書5章21〜24節》

命の意味を問ううめき
 主イエス・キリストは、「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」と語られました(ヨハネ5・21)。

 私たちの命は主イエス・キリストから与えられた命です。自分で生み出したものでもなければ、獲得したものでもありません。また、その命に、尊い命とそうではない命などといった区別もありません。

 自殺率(人口10万人あたりの自死・自殺者数)が全国一高い秋田県において、主にキリスト者が中心となって秋田いのちの電話(現在は「NPO法人秋田いのちの電話」)を立ち上げて、来年で20年になります。この間、自殺者数は減ってきていますが、自殺率においては、秋田県はなお高率です。

 私自身、初期の数年、相談電話を受けておりました。電話口でうめくようにして、自分自身の生の意味を問い続ける声を聞きながら、私たちの社会に厳然としてある生きづらさということの根深さを思わされました。

 病気や人間関係のトラブルなどで、家族をはじめとする人とのつながりを失い、自分の生と命の意味について自らに問い、堂々巡りの中で悩んでいる様子が見てとれるのです。「今はこの電話でつながっているけれど、何とか、どこかの誰かとつながってくれれば…」との思いで、必死に受話器を耳に押し当てて、そのうめきに耳を傾け続けたことでした。

 そして、それと共に、キリスト者として、悩みの中にある方たちが何らかの機会に、その命を与えてくださったお方と出会われることを心の中で祈ったことでした。

 

命を与える主
 7年前、長く求道をしておられたご婦人が病を患い、洗礼を決意されました。体調の回復を待って教会で洗礼式をと願っていたのですが、容体が悪化し、病院の病室において、ご家族が見守る中で洗礼式を執行しました。

 その後、回復を祈ったのですが、洗礼を受けてわずか2時間後に安らかに召されました。その死に向かう姿に接していて、私自身がはっきりと知らされたことがあります。それは、彼女は、「洗礼を受けて死を迎えた」のではなく、「洗礼を受けて主を迎え、永遠の命を得た」ということです。

 なぜならば、主イエスが、「信じる者は、永遠の命を得」ると言っておられるからです(ヨハネ5・24)。彼女は、「死から(永遠の)命へと移っている」(同)のです。主イエス・キリストが、私たちに命を与えてくださったということは、なんと大きな恵みであるかと思います。

 けれどもそれだけではありません。人に命を与えられた主は、ご自身の命そのものをも与えられたお方でした。「主は命を惜しまず捨て」(『讃美歌21』513)られ、ご自身を罪人の手に引き渡され(与えられ)ました。私たち罪人を救い、命を与えるためです。

 主は弟子たちとの地上のご生涯における最後の食事において、パンを取り、弟子たちに与えて、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」(ルカ22・19)と言われました。そして、そのことこそが十字架の上でなされていたことでありました。

 この後、ヨハネによる福音書6章で、主イエスは、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(ヨハネ6・53)とおっしゃっています。「肉」と「血」との表現は聞く者に衝撃を与えたことと思います。けれども、主イエスが十字架の上で成し遂げられた贖いのみ業は、まさに主イエスの肉が裂かれ、血が流されたということでした。それが、今日に至るまで、聖餐式において受け継がれている内容です。

 

「主イエスの「与命宣告」
 「余命宣告」との言葉があります。以前、病を得た方に付き添った際、医師よりそのような内容の言葉を聞いたことがあります。現代医学では、もはや快復に至る効果的な治療法は見当たらないという、まことに厳しい言葉でした。

 その場面において、私の頭の中には、「人に命を与えるのは誰か?」との問いかけが響いておりました。そして、その答えは、はっきりしておりました。「主よ、それはあなたです。あなたこそ、人に命をお与えになるお方です」と。

 私たちは、自らの地上の生涯に限りがあるとのことを知らされた時(余命宣告)にこそ、「子も、与えたいと思う者に命を与える」(ヨハネ5・21)との、主イエス・キリストの「与命宣告」を聞くのではないでしょうか。

 キリスト者は、その生涯の歩みの中で、主イエス・キリストの命に与かる聖餐式において、キリストの体と血とを分け与えられます。今も生きて働きたもう主イエス・キリストのご臨在のもと、その主の命に与かるのです。

 罪の奴隷の状態であった私たちを、神さまは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって救い出してくださいました。私たちは、もはや罪と死に支配されているのではありません。キリストの命に生かされ、キリストの僕として、まことに喜びあふれる歩みへと招かれたのです。

 その十字架とは、主イエス・キリストが、ご自分の命を、罪人である私たちのために与えてくださったという、キリストの「与命」を証しするものです。私たちキリスト者にとっては、「余命」ではなく「与命」、「余生」ではなく「与生」です。

 あるテレビのドラマの中で、社会における自分の存在意義を見失い、生きることについてさえも自信を失っている人に、「生まれて来たんだから、生きていていいんだよ!」と呼びかけているセリフがありました。私は、その言葉を、「神さまがこの世に生まれさせてくださったんだから、何も遠慮することなく、縮こまらなくていいんだよ。神さまがこの私を生かしていてくださるということの恵みに感謝して、神さまを信頼して生きていこうよ!」との呼びかけとして聞きました。

 与えられた命の限り、主をほめたたえ、主の恵みを証ししてまいりましょう。(第40教団総会書記 秋田桜教会牧師)

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