【4856号】メッセージ 主に信頼する歩み 佐々木美知夫

それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ、もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。わが主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。《イザヤ書30章18〜21節》

人間の知恵と力で乗り切るのではなく
 「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。これは信仰を求める言葉です。困難の中でうろたえ、人間的な知恵と力でその場を乗り切ろうとするイスラエルに対して、「イスラエルの聖なる方、わが主なる神」が語られるのです。

 イザヤ書30章はその始めに、エジプトとの同盟についての批判とイスラエルの背信を記します。また章の終わりでは、アッシリアに対する審判を語ります。そして中心部分で、イスラエルが置かれた困難の中に、神が共に居ますことを告げ、イスラエルが神への信頼に生きることを求めます。

 教会の歩みやその肢なる者たちの信仰生活も、基本的に神を礼拝することから始まります。信仰生活は神の賜物であり、自分からその必要や不必要を判断するものではありません。信仰が神の業として徹底されることによって信仰は成長し、力を持つのです。日々の歩みとそこで出会う事柄に、神への信頼を携えて向き合うのが礼拝者の姿であり、教会の姿です。そこに神の言葉を聴き、私たちを生かす神の力を得て歩むことが、本来自然な在り方なのです。それは祈りとなり、賛美となり、平安と感謝の告白にもなります。神を拝む生活、それは、重荷を担う孤独から解放され、将来を担う力を与えられるものです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28〜30)という主イエスの言葉は、私たちへの招きであり、しかも私たちに安らぎと将来を与える御心を表しています。信仰生活は神を礼拝することによって将来を見つめるものです。

 

主は待ちわびておられる
 イザヤ書30章の御言葉は、不思議な順序で並んでいます。先ほども申しましたが、30章は、神に信頼せず、エジプトとの同盟に走るイスラエルを批判した1〜7節の言葉で始まります。そして8〜17節では、民の背きと罪過による崩壊が語られます。8〜11節では、民の背信を記して永遠の証しとすべきことが預言者に語られます。民は自分たちに都合の良い神を求め、預言者に真の預言ではなく、自分たちに心地良い預言を語るようにと求めるのです。それ故に12〜17節では、神が怒りをもって崩壊を来たらせ、壺を砕くように民を粉砕されると告げるのです。神に立ち帰って静かに信頼する信仰は薄れ、人間的対応に走るイスラエルの民は崩壊すると言われます。最初に申し上げた15節の言葉は素晴らしい言葉ですが、この文脈で語られているのです。ですからせっかく神が御自身をイスラエルに示して信仰を求められたのに、彼らはそれに聞かなかったと言われます。普通に考えれば、これで神の言葉に聞かないイスラエルの民は崩壊し、裁かれて終わることになるでしょう。

 ところが、18〜26節では一転して、神の恵みが告げられます。「それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」とあります。これは17節までの流れとは異なるように見えます。しかし、旧約聖書そして聖書全体を通して示される神の救いの計画から見れば、神御自身の愛と憐れみによって救いの業が全うされていく姿に重なるのです。イザヤ書はここまでにも背信のイスラエルを示しながら、なお「主の日」の救いを語り、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(9・6)と語っています。ここでも「その日には」(23節)と語られ、神の恵みの豊かさが18節以下に記されます。

 18節の「主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち」の「待つ」という語は同節の「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」にある「待ち望む」と同じ言葉です。それ故に「待ちわび」と訳されてもいます。「主はあなたたちに恵みを与えようとして待ちわび、憐れみを与えようとして立ち上がられる」。何と深い神の愛と御心でしょうか。甲斐なき者と思えるイスラエルを御自分の民として位置づけ、見捨てず、愛し導いて行かれる主が共に居られる。

 この福音を神は御自分の独り子に託されました。そして独り子の御体として建つ教会に託されたのです。神は罪を水に流し、裁かれない方ではありません。罪を裁き、義を立てられる方です。25節には、裁きの時が来ると言われます。しかし、その日に水の流れのように神の恵みと命が豊かに示されるのです。神とその民とされる者たちの豊かな交わり、それが預言としてここに語られています。それ故に、神はイスラエルを導かれた以上に私たちを主に贖われた民として強く導き、神の国へと招かれるのです。

 教会の歩みも肢なる者たちの信仰生活もこの道筋にあります。15節の言葉は、18〜26節の言葉を通してもう一度私たちに語り掛けられるものです。

 

この方に信頼して
 私たちの主は、教会と私たちのために自らの力をもって立ち上がられる方です。今日、教団全体の伝道力低下や将来への困難が示されますが、私たちの為すことは先ず、この方を信頼し、心を尽くして礼拝し、神の救いを確信して、福音を語ることです。

 主は私たちを孤独にせず、私たちを「導かれる方」として御自身を現し、贖い主として私たちの「背後から」語って下さいます。「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。主は御言葉と聖餐の恵みを与え、御自身を示して伴って下さるのです。

 私たちは真の力を持つ方を礼拝し、豊かに支えられて、主の再臨の日に向かっています。教会の伝道の力はここにあります。伝道は主に贖われた者が、礼拝を守り、御言葉と聖餐の恵みにあずかって、喜びの中で福音を語り、証することに他なりません。主に生かされる教会そのものなのです。(第40教団総会副議長 静岡教会牧師)

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