Cornelia Judson・・・この女性を、松山の人は親しみを込めて「ジャジソン先生」と呼ぶ。
コーネリア・ジャジソン宣教師は、1860年10月20日、アメリカ、コネチカット州ストラッドフォードで生まれた。翌年、ストラッドフォード第一組合教会で幼児洗礼を受け、信仰深い家庭で育ち、やがてこの教会から派遣される最初の宣教師になるのだ。
彼女の転機は13歳の時。彼女はひどい肺炎を患った。両親は寝食を忘れて看病した。死と直面した彼女 は、罪のゆるしを神に願い、神のために働き、多くの人のために奉仕することを誓う。その祈りが聞かれ、奇跡的に回復した彼女は、熱心に勉強し、大学に進む。そんな学生時代に、外国での宣教活動について、特にアジア諸国は宣教師を必要としていることを知った。彼女の心に13歳の時の祈りがよみがえり、宣教師として自分自身を献げることを決心した。
大学卒業後、彼女は 外国婦人宣教師団に自分の名前を登録し、1887年、日本に向かって旅立った。最初の任地は新潟にあった新潟女学校だった。しかし、同僚の宣教師が病死するなど、新潟の冬の寒さ、厳しさに耐える自信を失っていた。そんなとき、設立されて間もない松山女学校(現在の松山東雲中学・ 高等学校)のために、女性宣教師を求めていることを知り、1890年7月、彼女は松山に転出することになった。松山に着くと、松山女学校の母体である松山組合基督教会(現在の日本基督教団松山教会)に出席した。
ジャジソンは、自宅から松山女学校まで歩いて通勤した。開校時間であるはずなのに、学校に行かずに道ばたで遊ぶ子どもたちや、子守や掃除をしている子どもたちの姿を見、すぐに貧しさのために学校に行けないことを知る。彼女はそんな子どもたちが学べる場所が与えられるようにと祈り、不就学児が夜間を利用して学べる施設をつくる決心をした。その思いを松山教会の牧師であり、 松山女学校の校長でもあった二宮邦次郎牧師に話すと、その必要性に理解を示し、協力を約束した。彼は多忙であったため、教会の3人の青年をジャジソンに紹介した。その中の一人が、後に讃美歌「山路こえて」を作詞した西村清雄(すがお)である。
3人は、教師の資格を持っていないので報酬をもらわないこと、その代わりに英語を教えてもらうことを条件として提示し、ジャジソンは大喜びで早速開校のための準備に取りかかった。校舎はジャジソンの2階建ての家を使うことになった。2階は生活のための部屋と英語教室、1階を教室として、女学校の古い机や椅子、黒板を運び込んだ。
1891年1月14日午後7時、25人の子どもたちが集まり、開校式が行われた。四国で最初のキリスト教教育による夜学校が誕生したのだ。3人の青年たちは無報酬で働いたが、学校の経営は思わしくなく、その後も何度も廃校論が起こったが、ジャジソンは有給の教師を迎え、新たに校舎も購入しようと準備を進めた。同年秋には校舎を購入、100名を超える子どもたちが集まり、彼女は不就学児童教育の使命感を強くした。
翌年、西村清雄が初代校長として就任。正式な教育施設としての認可を求めるため、早急に校舎の建設が必要になった。彼女は毎日、パンの他に野菜と卵を取り合わせた粗食をとり、衣服も新調することなく、慎ましい生活に耐え、土地の購入と新校舎の建築を実現した。その後も、校主としてジャジソンは私財を投じて、夜学校の教育の発展のために心を砕いていた。経営の費用不足を補うために、毎年多額の支出をして補っていた。
宣教師の定年を迎えて帰米した後、持病のリューマチ、さらには心身の疲れからか心臓も悪くなり、医者からは静養するよう指導されている。しかし、体調が良くなると、夜学校の支援をしてくれた教会や友人を訪問したり、さらなる支援を依頼したりしている。
ジャジソンは、松山の人々に向けて長い手紙を書いている。「神がわたしに翼を与えてくれるなら、すぐに飛んでいきたい。しかしわたしは、足が不自由になり、歩いて日本に行くことも出来ない。数年後にはこの不自由な体から解放されて、みなさんとの間を自由に行き来する楽な体になるだろう」。
その後、80歳近い年齢で乳がん、さらに転移した胃がんの手術を行っている。その頃、渡米していた教え子にこんな言葉を残している。「わたしのために祈ってくれるなら、わたしが長生きするように祈ってはいけない。わたしがこの世を去れば、この家を売ってそのお金を松山夜間中学の増築費に送ることが出来るのだから」。
1939年9月17日、ジャジソンはお気に入りの留め袖を着せてもらい、静かに天に召された。ジャジソンは、全財産をアメリカン・ボードに委託し、遺言状には自分の全財産を松山夜間中学(現在の松山城南高等学校)の基本財産とし、その利子を毎年送金する手続きを取るように記していた。今もその果実は、本校に送金されている。
生涯にわたって彼女は多くのものを与え、夜学校の教育のために尽くしたのだ。彼女が愛した聖書の言葉の一つが、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)というイエスの言葉だと伝えられている。ジャジソン自身がその言葉を生きた方であったことを、わたしたちは知ることができる。
ジャジソン宣教師の生き様を通して、わたしたちは、聖書の言葉は読むもの、聞くものではなく、その言葉を生きるものであることを学ぶことが出来るのだ。(Kyodan Newsletterより)