アニー・ダウドは、1861年11月6日「ミシシッピ州ダウド」だけで郵便が届いたと言われるほどの名家に、弁護士の三女として生まれました。女学校卒業後は教会付属の学校で音楽の教師として働いていましたが、やがて外国人に神の救いを伝えたいという思いを強く持つようになりました。丁度その頃、高知に来ていた宣教師の依頼を受けた南長老派教会は、26歳のダウドを高知に赴任させました。
1887年、高知英和女学校の教師として来高したダウドは、教師のかたわら、独力で市内の婦人たちに聖書を教え、キリスト教伝道を熱心に行いました。この学校は10年足らずで廃校になりましたが、ダウドは高知に留まり、僻地伝道を始めました。
その途中で出会った恵まれない少女たちのことが忘れられず、この少女たちに教育を受けさせ、信仰を持つことが出来ないものかと祈り願うようになりました。
1901年、乳ガンの治療から帰ってきたダウドは、鷹匠(たかじょう)町の借家に2名の少女を引き取り、教育を始めました。ここに清和の前身である「高知女学会」が誕生しました。ダウド40歳でした。15、16歳になっても全く教育を受けていない貧しい家庭の少女たちを次々に引き取りました。ダウドは、生活を共にしながら勉強だけでなく生活に必要な全てのことを教えました。
高知女学会は家庭のような学校で、全員が寮で生活をしていました。毎日、朝夕に礼拝を守り、日曜日には全員が教会に出席しました。英語だけでなく音楽教育にも力を入れ、全員がピアノやオルガンを弾くことが出来ました。授業で作った刺繍の作品は、学費補助のために米国の教会で販売してもらいました。
女学会の経営は困難でしたが、生徒たちは必要な物を十分に与えられていました。ダウド自身は自らの給与を切り詰め、安い質流れ品の洋服を仕立て直し、繕った靴下を履き、穴を隠すために幾つものボタンをつけたスカートをはくなど質素な生活をしながら経営を続けていました。規模が大きくなった学校の経営は、1915年からはミッションの経営に変わりました。1924年には米国の教会の婦人たちの献金によって鷹匠町に新校舎を建てることが出来ました。
しかし、この校舎は3年後の1927年12月3日、ストーブの煙突の故障が原因で全焼してしまいました。ダウドは使い古した聖書だけを片手に生徒たちを誘導し、1人の怪我人も出しませんでした。「泣き叫ぶ女生徒。ダウド嬢の目にも涙」の見出しで、機敏な避難の様子が新聞記事に残されています。ダウド66歳の時でした。
校舎の消失にがっかりしたダウドでしたが、「泣くのは止めましょう。神様には仕方がないことはありません」と再建への祈りを始めました。廃校を考えていたミッションの支援は得られませんでしたが、卒業生とダウドの働きに共感する多くの人々の支援により、翌年には校舎を再建することが出来ました。
このようなダウドの働きに対して、高知市はダウドの表彰を決めました。当時としては異例のことでした。最初、固辞していたダウドでしたが、神の栄光のため、全力を注いで主の業に励んだ結果だと教職員に勧められ、1933年2月11日に表彰を受けました。その文面には、「冷静深厚、博愛の心に富み、宣教師として遠く本市に来任し、熱愛を持って伝道に従事せらる。傍ら、高知女学会を創設して薄幸なる女子教育に従事すること30余年。古希を過ぎても疲れることを知らず、地方教化のために力を尽くされた功績は寔(まこと)に甚大なり」と記されていました。ダウドの名前とその働きが県下に知られるようになりました。
宣教師としての定年延長をしていたダウドでしたが、高知女学会の経営がミッションから高知教会に変わり、清和女学校になったのを機に帰国の決心をしました。
1937年4月12日、76歳のダウドは帰国の途につきました。人生のほとんどを高知のために捧げ、「帰りたくありません。神様が赦して下されば高知で死にたい」と高見山に墓地まで買っていましたが、神様は高知での働きをこれまでと定められダウドを帰国させました。
1901年、一人の宣教師によって始められた小さな清和学園は、多くの困難の中でダウドの思いを大切にキリスト教主義の学校として存続しています。ダウドの名前を聞く時、私たちは信仰による小さな働きが、大きな実を結ぶことを思い出します。
ダウドは、帰国後はミシシッピ州ジャクソンにある老婦人ホームに暮らしました。目も耳も不自由になり、足も弱っていたダウドでしたが、ホーム内では、バイブルクラスを開いたり、寝たきりの婦人たちを訪問したりするなど、祈りと聖書を読むことを欠かさない生活を送り、1960年4月23日に99歳で天に召さるまで、ダウドの生涯は神様に仕えるものでした。(Kyodan Newsletterより)