先日、牧師同士で旅の話になった。時間をやりくりし費用を工夫してじょうずに国内外の旅に行く牧師もいる。君はどこに行きたいか、と問われて困ってしまった。あまり行きたいと考えていなかったからだ。元々、出不精なせいで必要が無いと旅に出る腰も重い。教会学校のキャンプ、新報の取材、目的がはっきりしていれば重い腰も上がる。▼そうなら夫婦で、家族で美しい自然、日常とは異なる文化、社会に触れ、ふだん口にすることのない食事を楽しんだりは大切な目的じゃないの、と家族の声が聞こえてきそうだが。夏冬に元気な様子を互いに確かめ合うため実家に行くというのがここ最近の家族旅行だ。▼タスクをひとつひとつ消化してゆく毎日が旅にも思えるので非日常を求める旅を欲さない、と言ったら強がりか。日常が旅という考え方をどこで身に着けたか思い直してみるに、聖書、教会に出会ったことに源がある。聖書が記す旅する神の民、教会に自分も取り込まれてある、と信じられるようになってからだ。▼アブラハムは行く先を知らず旅に出た。パウロは福音を携え地中海世界を行き巡った。小さな書斎に篭って目の前の仕事を決して器用にではないが、ひとつひとつ積み重ねてゆくことに旅を見るのも愉快と思えるが。やはり強がりだろうか。