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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4797・98号】メッセージ 主の委託のもとで生きる 横山良樹

2014年5月10日

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 《マタイによる福音書28章16節~20節》

疑う者もいた

 弟子たちは、復活の主に命じられた通りにガリラヤへ行き、指示されていた山に登り、そこで主イエスにお目にかかってひれ伏しました。ただしこの期に及んでまだ「しかし、疑う者もいた」と17節に記されるような状況でありました。何を疑っていたのでしょう。書いていないだけに含みがあります。

 ヨハネによる福音書によれば、主イエスの十字架の死という大きな衝撃ののち、恐れと後悔に心が折れて、引きこもってしまった弟子たちのところに、復活された主は幾度も現れました。ある時は鍵をかけた扉をものともせずに彼らの只中に現れ、平安と祝福をお与えになったと言います。一度ならずそのようなことがあった。それなのになお疑う者がいた。信じ切れない者たちがいたのです。純度100パーセントではないのです。このことは疑いや不安のない者たちでなければ伝道のために働けないのではない、ということです。逆なのです。このように疑う者をも用いて働かれるのが神さまの業なのです。

 思えば十二弟子の中には裏切り者がいました。本当のことを言うと皆、裏切り者であったのです。そのことはユダや、ペテロならずとも皆よく知っていたでしょう。最後の晩餐の席上で、主イエスが裏切り者の存在を指摘したとき、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる聞いたというのは、皆がその可能性があることを否定できなかったということです。疑う心や、ついていけるだろうか、という思いが誰の中にもあった。わたしたちは人間なのですから、決意はあってもそれを決定にすることのできるような全能の存在ではありません。有限の存在であるがゆえに、死を恐れ、暴力を恐れ、反対を恐れ、孤立を恐れて裏切り、立ち止まり、知らぬふりをしてしまうような弱さや、疑いの心、つぶやく心を誰しもが持っているのです。

 

わたしの外へ、主の約束のうちに

 復活の記事や、使徒言行録を読みますと、弟子たちは信仰の鉄人になったわけではありません。その後も疑いがあり、判断に間違いもあり、それでも、しかし、その後は、もうイエスを主と証しすることを止めることはなかった。それは彼らが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と仰られる方の「世の終わりまであなたがたと共にいる」という言葉を支えとしたからです。

 よみがえられた主は、この世の終わりまで、すべてのことを支配されるという、そのことを彼らはまだはっきりと確信することはできなかったけれども、時が来て、聖霊が送られたときに、この消息が彼らの腹の中に座った、腑に落ちた。そのことを信じて、自分の存在を賭けて生きることの出来る者とされたということです。この恵みです。

 イエスを主と告白して生きる者は、自分のうちにある確かさに立つのではない。自分の中には疑いがある。いや不信仰しかないのです。だから、わたしの外へ、主の約束のうちに立つのです。恵みによって立たせていただくのです。

 ユダのように、あまりに早く自分で自分を裁いてしまうこともしないのです。わたしは主の僕なのですから、わたしの生殺与奪の権は、わたしのうちにはなく、主の御手の中にあるのです。わたしの主が、わたしに下される判決を、わたしは受け入れるのであって、自分で自分を勝手に裁いてはならないのです。最後の言葉はいつも主に取っておかなければならない。こうして不信仰なわたしをも用い、御業をなして行かれる方の手にゆだねて、わたしたちは働きます。遣わされてゆきます。

 疑う者たちが、わたしたちの中からいなくなることはありません。誰と書いていないのは、次の瞬間には、わたしが疑う者になっているからです。しかし、それが問題なのではありません。主イエスの命令に従ってガリラヤまでやって来て、山に登り、ひれ伏す。そこまでした者たちもまだ疑い、迷いから自由ではなかった。しかし、そうした弱いわたしたちが、なお伝道に用いられるということが神さまの業なのです。

 つくづく信仰というのは、人間業ではなく神業であると思わされます。人間の弱さが、わたしたちの意志や努力により克服されて伝道が進むというのではなくて、むしろ上からの力によってわたしたちが用いられてゆく、誤解を恐れずにいうならば、むしろ、砕かれたわたしたちを通して、福音の真髄が広められるといったほうがよいでしょう。

 人間の立派さが褒め称えられるのではなくて、なきに等しいものを用いられることによって、その業が人間から出たものではなく、神さまから出たものであることがわかる、そのような不思議な働きによって神さまの真実は証しされてきたのです。

 そしてこれからもそうでしょう。この信仰の理(ことわり)をわきまえておきたいと思うのです。

 

主の委託を受けて

 主イエスは、わたしたちがどのような生き方をすることによって、この派遣の委託をまっとうすることになるかを具体的にお示しになっておられます。

 それは「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という命令です。これは互いに愛しあい、重荷を負いあい、主を仰いで生きる民となるようにとの招きです。

 そこにすべての者たちが調和と一致を保って生きることの出来る道、赦しと和解の、平和の道が備えられているからです。主イエス・キリストを通して、神さまがわたしたちに示された救いの道です。

 こうして弟子たちは、山を降りてゆきます。主の委託を受けて派遣されてゆきます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束と励ましを受けて、聖霊の風にのせて送り出されていくのです。

 失敗を恐れる必要はありません。疑う心があることを恥じる必要もありません。むしろ、主の憐れみと慈しみは、わたしたちの、その弱さにこそ向けられています。

 十字架の愛がどのような時にもわたしたちに注がれていることを、そしてこの方の愛はわたしたちから離れ去ることも、取り去られることもない永遠の決定であることをわきまえて、それぞれの伝道の持ち場へ遣わされたいと願うものです。(半田教会牧師)

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