【4796号】イースターメッセージ さあ、行って 原田彰久

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。《マルコによる福音書16章1節~8節》

 選択と集中」は、諸活動の要点です。分野を広げすぎて手に負えなくなることもしばしばです。私たちは1960年代以降、「世にある教会」「体質改善」の掛け声と共に、多くの課題に目を向けて来ました。しかし現在、各個教会の疲弊は無視できず、例えば九州教区では負担金軽減の切実な声が寄せられています。一方で「本気を出していないだけ(もっと献金を)」と呼びかけられもします。

 このような私たちは、教団信仰告白に言い表された「十字架と復活の福音」を伝えることに傾注したいものです。そこでマルコによる福音書を通して「復活の主イエスこそ伝道の土台」であることを確認いたしましょう。

 

復活を知らせる若者

 復活は伝道の源泉です。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(6節)と若者が語りかけます。この若者は、一般的に天使であると考えられています。天使と言われて私たちが思い浮かべる姿は、絵画などの影響を受けているでしょう。この箇所には、羽の生えた人型の存在とは書いてありません。むしろ天使は神のメッセージを伝える存在です。復活は天使によって告げられます。いやむしろここでは、天使によってのみ語られています。

 主イエスの復活と言うと「空の墓」を思い浮かべます。けれどもそこには、女性たちだけでなく、天使がいます。女性たちは、この天使の語りかけを聞くことによって「空の墓」の真実を知ることになりました。そうでなければ、彼女たちもまた「遺体が盗まれた」(マタイ28・13)と考えることしか出来なかったでありましょう。そして女性たちは、主イエスの遺体がないと困惑するだけであり、「震え上がり、正気を失って…恐ろしかった」(8節)と言った衝撃的な出来事にはならなかったでしょう。

 こうして復活の出来事は、天使によって女性たちに告げられました。福音とは「幸福の音信(良きおとずれ)」です。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」(Ⅰコリント15・55)と言う復活の喜ばしい知らせです。それは「福音」を意味するギリシヤ語のエウアンゲリオンが示すように、「アンゲルス(エンジェル)」によって、私たちにもたらされました。しかし今も昔も、また洋の東西を問わず、復活は信じがたい出来事ではなかったでしょうか。

 

信じられなかった女性たち

 復活は躓きの石です。ここで「婦人たちは墓を出て逃げ去った……だれにも何も言わなかった」(8節)とあります。しかし沈黙ゆえに復活がなかったとは言えません。

 今日、復活を否定する考えが幾つか挙げられています。まず聖書の記述は、天・地・地下という三層構造的な古代の世界観に基づいており、科学的な現代人の理性にとって文字どおりの復活は信じがたいと言われます。そして、復活を弟子たちの心理的な体験として内面化し、合理化するのです。しかし古代アテネの人々ですらも、死者の復活をあざ笑いました(使徒17・32)。

 さらに使徒たちがイエスの福音を変造したとの批判も聞きます。つまり使徒がエウアンゲリオン(福音)を破壊したと言うのです。そこでは十字架の贖いも復活も沈黙の中に消え、むしろ「いと小さき者と共に歩む(人間)イエス」にならうことが「宣教」だそうです。

 しかし彼女たちが復活を信じられなかったのも当然です。なぜなら人間はすべて罪人だからです。罪とは神とその言葉を拒否して、信じないことです。また罪人の理性は、死者の復活について「だれにも何も言」えません。

 神はそのような私たちに、聖霊が照らし導く聖書を通して語りかけます。私たちは全存在をもって神の前に跪きます。そして信仰によって救われ、バプテスマを通して主イエスと共に死に、また復活の命に与ります。神を賛美する新しい理性と生涯をいただくのです。この理性を用いて、神の言葉である聖書を深く理解します。

 それゆえ復活の主イエス・キリストこそが教会の親石であります。

 

復活を宣べ伝える教会

 復活は伝道の基本です。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」(7節)と語られます。これを聞いた弟子たちは、ペンテコステの後に福音を宣べ伝えました。

 教会は「週の初めの日」(2節)に礼拝をささげます。復活の主イエスと出会うためです。そこでは説教と聖餐を通して、信仰が私たちの全存在と深く関わることを体験します。神の言葉を聞き、パンと杯に与るとき、復活の主イエスが、私たちの存在全体に生きておられることを聖霊において「味わう」のです。それゆえ主を信じ、バプテスマを受けた者が聖餐に与ります。

 礼拝には求道者もいるでしょう。ある教会では、聖餐に与れない理由を問う若者に配餐者が答えられなかったことをきっかけに、未受洗者も陪餐するようになったそうです。

 教会は今も同じ質問に直面します。そこで私たちは「バプテスマを受けて聖餐に与って欲しい」と語り続け、祈り続けるのです。それは主イエスの復活を伝道するのと同じです。教会は、復活を信じる人がいないからと言って、皆に受け入れられやすい、水で薄めたような復活を語る必要はありません。

 そして私たちは復活の主イエスに生かされる者として、一人ひとりが各個教会の礼拝から祝祷と共に、この世に派遣されます。そこで聖霊は欠け多き私たちを潔め、礼拝から始まるキリスト者の生活が整えられ育てられます。主イエスの証し人として伝道し、あるいは隣人に寄り添うのです。

 そして「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望」みます。その際、教団、教区が取り組む社会の視点を生かしたいものです。

 このようにして、主イエスの復活は天使によって告げられ、教会の基礎となり、歴史と場所を越えて、私たちに宣べ伝えられました。何よりパンと杯を味わうキリスト者の共同体以外に誰が、復活の主イエス・キリストを伝えるでしょうか。

 また社会参与だけが宣教ではなく、伝道と同義でもありません。教会にとって、伝道は宣教の要です。それゆえ私たち日本基督教団の教会は、今こそ伝道に集中する時です。

 十字架と復活の福音を言い表す教団信仰告白を賛美告白する教会の形成にまい進しようではありませんか。ハレルヤ。
(宮崎清水町教会牧師)

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