1937年、広島女学院高等女学部に入学し、「聖書の時間」の授業で、恩師である岡部先生から言われた次の一言が忘れられない。「これからの人生で何かにぶつかった時、必ずこの時間を思い出しますよ」。
卒業後、医学部を目指し名古屋に移住。現名古屋市立医大に入学。その生活の中で、1945年、広島に原爆が投下された。友人、知人と全く連絡が取れない中、翌年12月に広島に向かった。瓦礫の山。訪ねた人々は皆亡くなっていた。そう声を詰まらせながら語られた。1947年、名古屋桜山教会にて洗礼を受けた。
医師免許取得、そして結婚。明治から開業医を務める山形の音山家へ嫁ぐ。医学博士号を取得し、様々な医療行政関係にて活躍をした。しかし女性が社会進出するのが困難な時代、苦労も多かったと言う。特に1965年、山形県初の女性保健所長となった山形県南陽保健所長時代は忍耐を重ねて来たが、一度だけ、男性職員に大声を張り上げたことが忘れられない、とのことである。退職後も小児科医療、幼児教育等、後進育成に努めている。
夫君の存命中、教会から離れていた。しかし真理を探究する心は持ち続け、八十八箇所遍路巡りや、仏教の学びをしたが、受け入れることはできなかった。夫君が亡くなってから10年。自分の道を問い続けて、そして広島の学校の「聖書の時間」で聞いたあの岡部先生の言葉を思い起こした。そして山形本町教会の門を叩いたのである。
音山さんは言う。「今思えば、人生の岐路の度、岡部先生の言葉が自分を支えていた。洗礼を受けた時も、現職の時も、再び教会に導かれた時も。幼少期の教育、その基盤を作ることがどんなに大切かを改めて思う」。
また最後に「色々なことをして来たけれど、辞めた今はただの人。自分にできる支えを教会の中でして行きたい」と語ってくれた。
1925年、岐阜県に生まれる。1947年、名古屋桜山教会にて受洗。2005年、山形本町教会に転会。