多くの教会との出会いを経験
2014年1月4日~7日、福島県在住の親子を対象とした短期保養プログラム「こひつじキャンプ」が台湾で開催され、22名の親子が参加した。訪れる先々で多大なる歓迎を受けた。台湾の玄関口でもある桃園国際空港では、台湾の子どもたちに出迎えられ、私たちも前日に練習したキャンプソングで応えた。
桃園から新幹線で約1時間のところに、今回のキャンプで多くの時間を過ごした「嘉義」がある。日中の気温は22~23度ですごしやすく、子どもたちも汗をかきながら動き回った。
1日目と2日目は梅山教会に宿泊した。朝食は梅山教会の方の手作りで、肉まんや水餃子が大変美味しく子どもたちも喜んでいた。
今回は多くの教会との関わりが持てたが、中でも林子内教会の焼き芋プログラムは、子どもたちも保護者も楽しめたようだ。粘土質の土を野球のボールくらいの大きさにして何個も積み上げ、高さ50~60㎝くらいの窯(ドーム状)を作った。子どもたちだけで窯を作ることは大変難しく、何度も崩れてしまい、教会の方々に協力してもらいながら1時間以上もかけて作り上げた。保護者は、粘土質の土に水を混ぜて泥を作り、新聞紙でまかれた生玉子に泥をつけて泥団子状にする作業を行った。子どもたちが作った窯の中にこの泥団子状の玉子と芋を入れ、1時間後には夕食として頂いた。
夕食はもちろんだが、窯を作っているときや泥団子を作っているとき、また、子どもたちが広場で遊んでいるときなど、台湾の方との交流が随所に見られたのは喜ばしいことであった。
また、台湾は温泉でも有名だが、仙草小学校の太鼓の演奏(台湾の小学校で全国優勝の実力)で迎えられた後に温泉を楽しんだ。子どもたちと保護者に分かれ、保護者にはゆっくりと温泉でくつろいでもらった。子どもたちは水着に着替え、温泉に入るだけでなく、プールやドクターフィッシュ風呂(皮膚の角質を食べてくれる小魚がいる)、そして泥風呂にも入った。体中に泥を塗り合い、顔に塗って泥パックをするなど終始賑やかな入浴となった。
この日の夕食は関子嶺温泉街の一角にある関子嶺教会の招待を受け交流を楽しんだ。
こひつじキャンプは2012年1月からスタートし、日本基督教団が主催、東京YMCAと会津放射能情報センターが共催として取り組み、今回で9回目が終了した。第1回目のキャンプは富士山の見える東京YMCA山中湖センターで実施した。どのようなキャンプにしていくかを教団担当者と何度も話し合った。回数を重ねるごとにいろいろなことに挑戦してきたキャンプであった。
今回は初めての海外キャンプということもあり想定できる範囲で準備を進めた。参加者がリピーターということもあり、信頼関係のある中でプログラムが進められたことは心強かった。
その中で、子どもたちの代表として平栗静那さん(中学1年)に嘉義西門教会の聖日礼拝でスピーチをしてもらった。私には見えなかった被災された方々の気持ちを中学生の視点で話してもらい、聞いていた方々に感動を与えるものであった。
このスピーチを含め、このキャンプに参加したことは私自身の今後の取り組み方を考えさせるものとなった。
(松本竹弘報/東京YMCA)
UMCOR、PCTの支援により実現
新年早々、東京電力福島第一原子力発電所事故によって被災した福島県親子22名と共に、台湾で3泊4日の保養キャンプを行った。アメリカ合同メソジスト教会海外災害支援部(UMCOR)から贈られた支援金と台湾基督長老教会(PCT)嘉義中会からの招きによって実現した。
1月4日午後、桃園国際空港に到着した私たちを出迎えたのは、台湾の子どもたちの歓迎の歌声だった。そして、PCTの許榮豊議長、林芳仲総幹事、国会議員の歓迎の言葉に続き、帽子や花の冠などが親子に贈られた。宿舎となった梅山教会は、私たちのために真新しい布団や枕を用意し、朝食には手造りのサンドイッチ、肉まん、餃子など美味しい食べ物を準備してくれた。また、私たちが訪れる先々では、嘉義中会に属するそれぞれの教会が心のこもった食事や楽しいレクリエーションの時を与えてくれた。
3・11より間もなく3年を迎える。この3年間、放射能に怯えながらの生活を余儀なくされて来た親子にとって、台湾の方々の歓迎がどれほどの慰めと励ましとなったことかと思う。ここで、福島の子どもが述べた感謝の言葉を紹介したい。(飯島信報/救援対策担当幹事)
感謝の言葉 平栗静那さん
こんにちは。私は日本の“福島”というところから来ました。東日本大震災の被災地に対する、皆さんからの積極的で長いご支援への感謝は言葉では言い表せません。本当にありがとうございます。
2011年、福島では震災が起きたとほぼ同時に原発事故が起きました。大量の放射性物質が広範囲に拡散され、それは終わりのわからない“不安と心配の日々”の始まりでした。真夏なのに長袖を着てマスクをし、窓を閉めて、なるべく外には出ないで過ごす毎日。水道の水は怖くて飲むことができず、学校の給食ですら不安で口にすることができませんでした。
でも何より辛かったのは、放射能に対する考え方の違いから友達との心の距離ができたこと、そして福島から避難していく友達が沢山いたことでした。
そんな中、夏休みから私の保養に出る生活が始まりました。保養先では服装を気にせず、走ったり、自転車に乗ったり、草や木に触ったり、地面に直接座ったりできました。
そんなことができるのは何か月ぶりだったでしょうか。それらはすべて、今まで福島でできていた生活そのものでした。原発事故はほんの一瞬で、私たちの“普通の生活”を奪っていったのです。
毎日が普通とは違ってしまいましたが、私たちは国内はもちろん世界中の“福島の子供たちを心配してくださる方々”の助けを借り、学校が休みの時に少しずつ保養をしながら今日まで福島で生活してきました。周囲の除染も始まっていますが、まだまだ原発事故は収束していませんし、私たちの未来には“保養をまじえた生活”が絶対に必要だと思っています。
このキャンプに沢山の方々が関わってくださっていることに深く感謝し、そのお気持ちに応えられるよう毎日をしっかりと生きて行きたいと思います。そしていつか、お世話になった方々やご心配してくださった皆様に恩返ししたいと思っています。