【4791号】メッセージ 招かれている今 菅原 力 

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』《マタイによる福音書22章1節~13節》

王子の婚宴への招き

 王様が王子の結婚の披露宴のために人々を招きました。ところが招かれた者たちはそれぞれ用事があると言い出して、その婚宴にこなかった。そこで王様は家来たちに町の大通りに出て、見かけた人は皆婚宴に呼び招いたのです。大通りを歩いていた人にとってはありがた迷惑な話だったでしょう。いくら王様の息子の婚宴といっても、いきなり今日、今から婚宴に来いと言われても、との思いであったでしょう。

 ところがそれだけでも驚きなのに、王はその中の一人が婚礼の礼服を着ていないということで怒り始めたのです。そして家来に命じて礼服を着ていない人を婚宴の席の外に放り出したという話です。いきなり婚宴に呼ばれたのだから、礼服の準備がなくても仕方がないじゃないか、とも思うのです。

 ずいぶん乱暴な話です。無茶な話でもあります。主イエスは何をここで語ろうとしておられるのでしょうか。

 

わたしたちの人生における招き

 それはわたしたちのこの人生における招き、ということなのではないでしょうか。わたしたち一人一人は、皆この人生に招かれて、生きている。自分が納得できる場所もあれば、納得できない場所もあるでしょう。しかし、招かれた以上はその招きをしっかりと受けとめ、その招きに応えて歩むことが大事なのです。大通りを歩いていた人にとってこの招きは理不尽だったかもしれませんが、婚宴の席に入った以上、「おめでとうございます」といってその場を受けとめ、その場を生きることが大事なのです。

 人生の途上で思わぬ困難にぶつかって苦しむ人もいるでしょう。なぜわたしがこんな目に、と思わざるを得ない経験もあります。しかし困難にぶつかったのであれば、その現実を何らか受けとめ、困難を自分なりに生きることが大事なことになってくるのです。つまり、与えられた今を自分が生きる今として受けとめて生きることがどうしても必要なのです。今に集中しなければならないのです。

 礼服を着るということは、ただ服装のことを言っているのではなく、婚宴の席に着いたのだから、その場を受け入れ、その時に集中しなければならない、それが礼儀としての礼服なのです。今をしっかりと生きる、それが招いてくださっている方への人生の礼儀、礼服とはそのことを指しているのでしょう。招きはいつも自分にとって良いことばかりではなく、時には理不尽と思われるようなことも、わけのわからない招きもあるのです。しかし、その招きに応えて生きることで人は神が与えてくださったこの人生を生きることになるのです。

 

キリストの信実の中にある

 60才になられた時に、突然難病に罹ってしまった人がいました。大変有能な方で、研究者として活躍しておられた方でした。体が少しずつ動かなくなり、やがて食べ物をのみ込むことも困難になり、最終的には体が動かなくなるという病気でした。しかし現在のところ治療法がない、というのです。

 お見舞いに伺った時に、「こんなふうに病気が確実に進行していって、最後には何もできなくなって家族に迷惑だけかけて、わたしが生きていくことに本当に意味があるんでしょうか」と静かに問いかけてこられました。

 返す言葉がありませんでした。言葉が現実の前で押し倒されるのを痛いほど感じたのです。

 なんだこの現実は、というような現実があるのです。ひどすぎるという現実があるのです。そこで言うべき言葉がないような現実です。しかし、どのような現実であっても、わたしたちの人生の主人はわたしではない。わたしたちを招いて、今を生きるよう呼び出してくださっている主人がおられるのです。そのことを気づかされながら、今という時、招かれた婚宴の席を受けとめていきたいのです。

 聖書が指し示すのは、わたしたちの現実とは、キリストの信実の中にわたしはあるという現実であり、キリストに担われた現実であって、わたしたちはその現実の中で今を生きるべく招かれている、ということなのです。

 なぜ自分がこんな婚宴の席に呼ばれなければならないのか、ということに終始しないで、招かれたその場所がどのような場所なのかを受けとめ、キリストに担われている現実の中で、招かれた今を受けとめて生きる、その場に集中して生きる、それがこの譬え話で主イエスが語っておられることです。

 もともと、人生はわたしの計画どおりになるものではなく、わたしの考えどおりになるものでもない。

 わたしたちはみんな神さまからこの人生に招かれている。そしてその招きは時に、なぜこのわたしがこんなことに遭遇しなければならないのか、ということもある招きです。

 それは何も特別なことだけでない。自分が年を取って高齢者になり、体がいうことをきかないようになるということひとつとっても「なぜ、自分が」「どうしてこんな現実が与えられるか」という心の叫びがあるのです。

 しかし神はその時々の今に、わたしたちを招いておられるのです。それは、キリストに担われている今であり、神の愛と恵みの中にある今だからです。それがわたしたちにとっての人生というものです。

 

キリストに担われた今を生きる

 病気の方にこの主イエスの言葉を語りながら、「神さま、この方と、わたし自身があなたの言葉を己が身において聞くことができますように」と祈りました。「与えられている現実は、キリストの信実の中にある現実であり、キリストに担われている現実であることを受けとめていく信仰を与えて下さい」、と祈りました。与えられた人生の場、その時々、招いてくださっている方の呼び声に応えて歩んでいく、キリストが担ってくださっている今を生きること、そこに心と体を向けていきたいのです。

 通りを歩いていた人が、突然招かれた時の戸惑い、その戸惑いはわたしたちの中にいろいろな形であるものです。しかし、そこでこそわたしに語りかけてくる主イエスの言葉が聞こえてくるのではないでしょうか。

 あなたに与えられた今を引き受けて、心をこめて自分として生きる。それがわたしたちをこの人生へと招いてくださっている神への真実の礼儀、なのでありましょう。わたしたちは招かれて生きているのです。

 招かれている今を受けて生きていきましょう。
(弓町本郷教会牧師)

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