神学部の学問の自由と教会と
教会と切っても切り離せない関係にあるのが神学校、つまり教師養成機関である。日本基督教団には教団立東京神学大学の他に五つの教団認可校があり、教団から教師養成の任務を委託されている。教会と神学校の関係がいかなるものであるかについて、様々な議論が出来るが、ここでは視点を移してドイツ・バーデン領邦教会における教会と神学部のあり方について取材してみた。
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まずは前提となる基礎知識について。ドイツの人口のほぼ三分の一がローマ・カトリック教会員、三分の一がドイツ福音主義教会(EKD)員、残りの三分の一が他の自由教会か他宗教、または宗教を特に持たない人という風に区分される。今回取材したバーデン領邦教会はこのEKDに加盟している合同派の教会の一つで、地域的にドイツ南西部(バーデン・ヴュルテンベルク州)に位置する。それぞれの領邦教会は独立しており、おのおの教会憲法を持っている。バーデン教会の場合は教師試験をハイデルベルク大学神学部に委託し、協力して試験を行うことになっている。教会数は五五〇、信徒の総人数は一三〇万人(二〇〇四年現在)と発表されている(なお教区の数は二九)。すべての大学神学部は国立(次回で述べる教会立神学校は別)である。ハイデルベルク神学部の昨学期の在籍学生人数は約六八〇人である。五~六年の学びののち受験する第一試験をへて実践の場での訓練が始まる(今回はこの段階を「牧師補」と訳した)。ここには学校教師も含まれる。さらに二年半の実習訓練を経て第二試験を受験し、按手礼を受領することになる。この第二試験の受験者が今年は二五名で、これはほぼ領邦教会で必要としている牧師の人数と合致する。ただし、現段階では合格後しばらく待機を余儀なくされる(順番待ち)状態で、この状態はしばらく続く見込み。ただし受験者そのものは若干減少気味ということであった。
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教会と神学部の関係について基本的なことをまず伺えたのはクリスチャン・メラー教授(実践神学)である。
「神学教授の領邦教会へのコミットメントの仕方は教師試験だけではありません」。これ以外に常時、領邦教会の各種委員会に最低一人神学教授が配置されているという。しかし当然のことながらすべての神学教授が同じように教会にコミットするわけではない。熱心な教授とそうではない教授がどうしても生まれてくる。「ただ、この州では神学部と教会との関係はうまくいっているのではないでしょうか。リューデマン教授のようにハノーファー教会と深刻な対立を引き起こすような例は全くの例外です」。ゲッチンゲン大学神学部で新約学を講じていた同教授は、「キリストの復活はなかった」と公言し、教会は教師試験の担当から外れることを要求する。その結果同教授は宗教学の教授に転ずるのである。「発言そのものを封じるのではないことは、大学における学問の自由の原則からいっても必然的なことかも知れません。すべては教授に任されているのです。大学神学部の目的は第一に学問的研究です。教師養成は第二の目的といって良いでしょう。教会立神学校(注・次回参照)はまた異なりますが」。
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この「学問の自由」はタイセン教授(新約学)もまた強調する。「確かにバーデン州の場合、学問的神学と教会とに軋轢が生じた時期がありました。八〇年代前半のことです。牧師のなりてが極端に減って、教会はそれまで教会関係の施設で働いていた執事に二年程度の神学教育を積ませた後牧師に任職していました。長い信仰生活と大学で学んだ神学との間に違和感があったのでしょう。大学の神学教育に対する強い異議が、特にそういった牧師の多かった地区から唱えられたのです。そこで、神学教授が一人最低でも半年に一度その地区の教会に泊まりがけで赴き説教や講演をするように取り決めたのです。再び牧師のなりてが増えてから、自然とそういった声も小さくなりました。ただ、私としてはそういった場合でも神学教授がやるべきことは本来講演のような形がよいと思うのですが」。
「神学が直接教会に貢献するというのではなく、学問の自由が保障されるべきです。教会との関係はそれとは別個に考えるべきで、たとえばこの大学には大学教会があり、また大学公認のキリスト教サークルがあります。先日も私が講演に行きました。別個とはいっても重要であることには変わりありません」。
タイセン教授がまた強調するのが、教会と大学という二項関係だけでなく、それ以外の流れも重要だという点である。「八〇年代後半から再び牧師志願者が増加します。学生の数でいっても八〇年代前半の一番少なかった時期で五〇〇人だったのが二〇〇〇人ぐらいに増加したのです」。原因はいくつかあって、聖書の批評的解釈が動向にまとまりをつけ始め、それらを学んだ上で牧師として説教をすることに十分めどがついたということもあるが、「ドロテー・ゼレの存在が一番象徴的かも知れません。彼女は七〇年代後半までキリスト教内部における教会批判運動の急先鋒でした。彼女の文献読解力は学問的水準としても高い方だと言えますが、彼女を教授として招聘する大学神学部はドイツにはなく、アメリカに行くことを余儀なくされます。しかし元修道士との結婚の後、独自の霊性運動を展開し、再び教会に戻ってくるのです」。その時期と神学部が人気学部に転ずる時期は一致するという。ゼレは今でも特に女子神学生からの人気を集めているが一昨年に逝去した。
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さて、ここで教会の側からの声を取材してみた。大学の地元、ハイデルベルク地区の地区長をし、聖霊教会牧師でもあるステファン・バウアー牧師である。
「確かにリューデマン教授の事例は特殊かも知れませんが、少なからず似た事例をバーデンも抱えているのです」。ハイデルベルク大学の新約学のある教授は、最新の著作「新約聖書の使信は真実なのか?」に限らず、新約聖書文書に正典としての特別の位置づけを与えず、他の書物と全く同じように古典的価値のみを与えるという研究をし、著述活動をしているのみならずリベラル系の新聞に教会批判をときおり寄せているという。「私は問題だと思うし、このことは本人にも直接言っています。私だけではなく領邦教会本部でも同じように問題を感じているようです」。
「ただ、領邦教会とハイデルベルク大学神学部は良い関係を保っており、定期的なコンタクトもなされていますし、また教授個人を例に挙げるとすれば、最近聖餐論についての著作を書いたウェルカー教授はたびたび牧師会に招かれ、そのたびに聖餐論についての講演を行い、その牧師会での牧師からの反応を論文にフィードバックさせて今回本を出版しました(注:『聖餐においてなにが起きているか』)。そういった努力は熱心になされていると思います」。
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ここまでをまとめれば、「神学の自由は何のためにあるのか」ということになろう。元々「学問の自由」とは大学が創設されて以来、あらゆる権威から自由になって真理を探究するために保証されているものである。しかし神学が教会の営みと無関係になされることはあり得ない。気がつくことは、「学問の自由」を標榜する、今回取材した神学教授達も、皆一様に教会との関係を良好に保っているということである。
次回は、さらに取材を進めた結果を紹介することにする。(今回取材した方々の紹介・写真などは次回にまとめて掲載します)
(上田彰報)