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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4574号】イースターメッセージ

2005年3月19日

ローマ人への手紙 八章一~一一節

復活と生まれかわり 李 孟哲

復活について

キリスト教が宣べ伝えている主イエス・キリストの復活のメッセージはキリスト教信仰の中の最も大事なことです。
しかし、一般の人々はそれを理性的に検証しようとしますので、なかなかキリスト教に入信することができません。復活は本当にあったのか、人は復活できるのか、復活する必要があるのかというのが彼らの疑問です。確かに、人類の歴史の中で、それを経験したことはありません。
聖書の中に何人かの復活について記されていますが、彼らはたとえ一度復活しても最後にはやはり死んでしまったのです。ですから、人の理性のみで判断しますと、復活の事実は受け入れ難いものです。
しかし、パウロはきっぱりと言いました、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(Ⅰコリント15・14)。
人の理性から見ますと、求道者にとってはジレンマでも、救われた者にとっては信仰の奥義なのです。復活の信仰は理性的に説明できないかもしれませんが、理性を超えたところでその奥義を理解し、受け入れることができるのです。

理性は人の死の問題を解決できない

日本で生活しているこの数年間、私にとって最も悲しく釈然としないのは鉄道での人身事故です(台湾ではあまり起きないのだが)。大抵自殺しようとする人はきっと理性的には解決できない困難に遭って、死によってすべての悩みや苦しみから解決できると考えたからだと思います。しかし、実際はその逆です。人の悩みや苦しみは肉体的な部分と霊的な部分があり、最後には必ず霊的な苦しみに変わるのです。たとえ人の肉体が死んでも霊が滅びないので、霊の苦しみは解決できないのです。なぜなら、もし人が肉体の死をもって霊的な苦しみを解決できれば、動物と何ら変わりがないのですから。もし、肉体の死をもって霊的な苦しみをも合わせて解決できれば、人生がよっぽど楽になります。でも、実際は不可能なことです。これはちょうどイエス様が話されましたたとえ話の中に出てくる金持とラザロの死後の世界のようなものです。金持が死んで肉体が滅んでも彼の霊は永遠に脱出できない、終わりのない苦しみの中に入ってしまったのです。このような苦しみは、肉体の死によって解決できるものではありません(参考ルカ16・19~31)。
パウロも「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6・23)と明言しました。パウロがここで言う“死”は 勿論肉体の死を指しているのではなく、霊的な命の惨めな状態を言っているのです。人は霊的に解放されて、はじめて悩みや諸々の問題を解決できるのです。これは即ちパウロが言っているように、神は人にとって愚かで理解できない言葉を用いて、救いにあずかる者に力を与えたのです。この救いは簡潔に言えば主の復活を信じ、且つ主の復活によって信じる人に生まれかわりをもたらすことを信じることです。復活と生まれかわりは一つの事柄の両面なのです。主イエスがユダヤ人指導者ニコデモに言われたように「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3・3)。

人には復活、生まれ変わりが必要

有名な映画俳優トム・ハンクス(Tom Hanks)氏が二〇〇〇年に主演した“キャストアウェイ”(Castaway)という名の映画の中で、宅配便“フェデックス”(FedEx)のエンジニア チャック・ノーランド(Chuck Noland)の役を演じていました。
彼は出世をしていました。しかし、ある日出張旅行の途中、チャックの乗った小型飛行機が事故で海上に墜落してしまい、彼は一人で無人島に流されました。文明的な生活から切り離され、人と人の関わりも完全に断たれた彼は“生きる”ことのみが生活の目的でした。孤島で原始的な生活を四年間送った後救出されましたが、彼の人生観がそれによって大きく変わりました。彼は人生の目的や意義について考えるようになり、全く新しい目で仕事や生活に取り組むことができました。
確かに、人はもし、命について、霊的、肉体的な生活面から考え直すことができなければより多くの罪や苦しみを重ねることになります。これは律法の定めと人間がそれを実践する上での戦いでもあるのです。人間の歴史的経験から見ますと、人は神の御旨を律法の条文に変え、律法の要求を通して人が自分の欲望によって犯した罪を解決し、人の行いを神の要求に一致させようと試みました。
しかし、実際、律法は人の欲望、人の罪を解決できないばかりか、人が律法を守ろうとするところで己を見失ってしまい、その結果、より多くの罪を犯すことになります(ガラテヤ5・17)。それゆえ、神はイエス・キリストの死と復活を通じて、人に赦しと寛容の愛を表し、また復活の権威をもって人の命の難題を解決してくださったのです(ローマ8・1~4)。
イエスの死からのよみがえりは私たちに生まれかわりの答えと希望を与えてくださり、また、その復活の権威と力によって私たちの形あり、限りある命を徹底的に変えて下さったのです。

復活はあの世のことであり、またこの世のことである

イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が人の内に宿ってはじめてこのすべてを新しくする御霊が人を死ぬべき惨めな状況から生かしてくださり、新しく生まれ変わらせてくださるのです。このような救いは、肉体の命が終わってから始まるのではなく、生きているこの時点から新しくされるのです。肉体が滅んでから始まる霊的な命を望むのではなく、イエスがキリストであり、救い主、復活の主であると信じるこの時点から霊的な生活が始まるのです。このような命が人を肉のことを思う気持ちから霊のことを思う気持ちへと変えてくださるのです。肉のことを思う生活から霊のことを思う生活へと変えることのみ、本当の命と平安が得られますし、この救われた新しい命が永遠に続くことができます、これが復活なのです。イエスが言われました、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、 いつまでも死なない」(ヨハネ11・25~26)。

信じれば与えられる

皆さん、復活のメッセージは 不思議ではありますが、理解できない、受け入れられないものではありません。人間は己の欲望によってもたらされた苦しみに戸惑ったりしているところを見ますと、このような苦しみや悩みは理性の次元ではなくなっているのです。もともと人間は新しいミレニアム、二十一世紀に強い憧れや期待を持っていましたが、実際に入ってみますと、想像していた完璧さや安らぎがないばかりか、災難や戦争が絶え間なく襲ってきます。理性がすべての問題を解決できる万能の薬ではないことが明らかです。現世の問題も解決できないならましてや人間にとって神秘的な命の問題はなおさらです。
イエスは死をもって私たちに平安の確証を与えてくださいましたので、主の力を信じ、その教えを守るなら主からの平安が与えられるのです(ヨハネ14・26~27)。復活の信仰は私たちの理性を超えているかもしれませんが、理性で信仰を選ぶことができるのです。「信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイ21・22)と主イエスは約束されています。
(東京台湾教会牧師)

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