【4582号】メッセージ

ヨハネの黙示録 三章二〇節

扉を開いて 藤掛順一

会堂開放

私たちの教会は昨年秋から、「会堂開放」を始めました。私たちの教会堂は一九二六年に建てられた、ご覧のように大変厳めしい建物です。新来者にとって決して入り易くはない、敷居の高いものですが、他方横浜市の歴史的建造物に指定されており、それらを巡るツアーのコースにも入っていて、見学を希望する人はけっこうあります。
しかしこれまでは、正面玄関近くに事務所を設けることができないという構造上の制約もあり、週日には扉を閉ざしていました。それをこのたび、教会員の中から奉仕者を募り、毎週木曜日から土曜日の午前十時から午後四時まで、正面入口の受付に奉仕者が二人ずつ待機して、来訪者を迎え、必要があれば建物の説明などをするという体制を整えました。開放中、外には「会堂開放中です」という看板を出し、気候のよい時には扉を開けたままにしておいて、誰でも入れることをアピールしています。
始める前は、果してどれくらい人が来るだろうか、一日中待ちぼうけになるのでは、と不安にも思っていましたが、実際にはほぼ毎日、案外多くの方々が訪れてくれています。
私どもの教会はオフィス街にありますが、近くの会社に勤めている人が、「一度入ってみたいと思っていたが、今まで週日にはいつも閉まっていて入れなかった」とお昼休みに来たり、横浜のキリスト教史跡を巡るツアーの方々が立ち寄られたり、デート中のカップルがふらりと立ち寄ったりしています。ちょっと見るだけですぐ帰る人もいれば、礼拝堂に座って奏楽者がパイプオルガンの練習をしているのをしばらく聞いていかれる方もいます。この会堂開放を通して、見知らぬ人々に教会の案内を渡したり説明したりする出会いの機会が与えられたことは、貴重な時間を献げてくれている教会員の奉仕者にとっても、また教会全体にとっても、充実した喜びとなっています。初めて礼拝に来る前の下見に来られた方もあり、教会の敷居を低くし、入り易くするという効果も出ているようです。

秘密結社化する教会

教会が地域の人々に向かって扉を開き、迎え入れる姿勢を具体的に示すことは大事なことです。それはある意味当たり前のことであり、そのような努力をそれぞれの教会はいろいろな仕方で既にしておられることと思いますが、そのことがなかなか願うような成果を生まない現実もあります。日本のキリスト者人口は今や一パーセントを切り、社会の中で教会の存在感はますます希薄になり、人々の目に見えなくなりつつあります。ある人はこれを「教会の秘密結社化」と表現しています。そのようなつもりはなくても、自分たちの間でしか通用しない言葉や論理に凝り固まり、結果的に世間の人々に対して扉を閉ざしているという印象を与えてしまってはいないか、私たちは自らを振り返るべきでしょう。

主イエスを迎えるために

教会の扉は、象徴的な意味で開かれていなければなりません。けれどもそれは、単に世の人々を一人でも多く教会に迎え入れるためだけのことではありません。教会の、そして私たちの、閉ざされてしまいがちな扉を、主イエス・キリストがたたいておられるのです。 主イエス・キリストが私たちの心の扉の外に立ってたたいておられ、私たちが扉を開くことを待っておられるのです。私たちが扉を開くのは、その主イエスをお迎えするためなのです。
教会の扉を開くことも、人々を迎え入れるためであるよりも先ず、主イエス・キリストをお迎えするためです。教会が自らの中に閉じ籠り、扉を閉ざしてしまっているとしたら、それは主イエス・キリストに対して扉を閉ざしているのです。主イエスをお迎えする心が萎えてしまっているのです。

主イエスによる派遣

主イエスは、そのような私たちの閉ざされた扉をたたき、入って来られます。復活された主イエスが、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて閉じ籠っていた弟子たちのところに来られ、その真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さったのと同じことが私たちに起るのです。主イエスが入って来て下さったことによって、弟子たちは喜びを与えられ、そして主イエスによって「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と派遣されたのです。主イエスは彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言われました(ヨハネ福音書二〇章一九〜二三節)。このようにして弟子たちは、聖霊の力をいただき、罪の赦しの福音を宣べ伝えるために、閉ざされていた扉を開いてこの世へと出ていったのです。このことは私たちに、扉を開いて主イエスをお迎えすることによってこそ、扉を開いて世に向かって福音を語っていくことができ、扉を開いて人々を教会に迎え入れることができる、ということを教えているのです。

洗礼と聖餐の共同体

「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」。この食事は終末における祝宴ですが、今この世において私たちがその食事を前もって味わい、この祝宴にあずかる希望に生きるために与えられているのが聖餐です。この食事にあずかるために、扉を開いて主イエスを迎え入れること、それが洗礼を受けることの持つ一つの意味です。教会は、扉を開いて主イエスをお迎えする洗礼を受け、終末の祝宴の先取りである聖餐にあずかりつつ生きる者たちの洗礼共同体、陪餐共同体なのです。

伝道する教会へ

教会が扉を開くのは、この共同体を真実に形造るためです。
扉を開くことは、教会と世との境目をなくしてしまうことではないし、教会の入り口の敷居を取り払ってしまうことでもありません。
「十字架のつまずき」(ガラテヤ五章一一節)をなくしてしまってはならないのです。
洗礼を受けて聖餐にあずかる群れ、という教会の本質、そこにある根本的なつまずき、即ち教会と世との境目をはっきりさせなければなりません。
そうすることによってこそ教会は、人間の思いが作り出す不必要な敷居を全て取り除き、扉を大きく開いて、世に向かって、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことができるのです。
力強く伝道する教会となることができるのです。

(横浜指路教会牧師)

 

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