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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4587号】メッセージ

2005年9月24日

マタイによる福音書二〇章二九~三四節

開かれた瞳で何を見るのか 新井 純

主イエスと弟子たちは、エルサレムに向かう途中、エリコの町を通った。町を出ようとした時、道端に二人の目の不自由な人が座っているところを通りかかった。
二人は、そこを通り過ぎているのがナザレのイエスとその一行だと知り、声を張り上げ懇願した。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください!」
“あわれむ”という言葉には、一般によく知られている同情するというのとは別に、生きるか死ぬかの権利を握られているような罪人を、罰しないで許そうという慈悲、情け、容赦、そういった意味もある。
障碍や重い病気などが罪の報いであると信じられていた時代のこと、もしかしたら、この二人は単に障碍を持つ者への慈悲を求めただけではなく、救い主と噂されていたナザレのイエスに、罪の赦しを願ったのだろうか。
この時、周囲の人々は二人を叱りつけて黙らせようとした。罪人であるはずの者が、声を上げて訴えることなど許さないという傲慢な姿がそこにある。しかし、二人はますます激しく叫ぶ、「憐れんでください」と。
その声は主イエスに届いた。そして主イエスはたずねる、「何をしてほしいのか」二人は答えた。「主よ、目を開けていただきたいのです」

・チムグリサ

沖縄の言葉に、チムグリサというのがあると聞いた。
小学校の校長先生が、戦争の犠牲になった子どもたちの顔を思い浮かべた時、その心境をチムグリサと表現したという。「はらわたをえぐり取られるような心境」という意味だそうだ。
新潟県中越地震から二ヶ月後の昨年一二月、関東教区の紹介でマリンバ奏者チャン・エリョンさんを招いて震災復興支援コンサートを教会で行った。疲れやストレスがたまって休まる間もない生活の中で、少しでもホッとできる時を地域の方々に提供したかった。
コンサートの中でチャンさんが「震災の翌日、夕食の時にテレビをつけたら震災のニュースが流れた。すさまじい被災地の映像を見ていたら、悲しくなって辛くなって涙が出て、食事がのどを通らなくなった」と語り、大粒の涙をこぼした。その演奏が、このような思いと共にここにやってきたことを知った被災地の人々の目からも、涙が止めどなく溢れた。
教会での震災復興コンサートは、チャンさんの他に、沢知恵さん、JCブラザースと、これまでに三回行われた。コンサートのタイトルはいずれも「元気をもう一度」とした。これは、北海道の養護学校の生徒たちが贈ってくれた言葉。
教会ボランティアセンターで活動した養護学校の先生が、帰宅後生徒たちに被災地での働きを通して見聞きしたことを生徒たちに話して聞かせた時、生徒たちから「何かをしよう」と声があがり、被災地に言葉を贈ることになった。その言葉を選ぶ時、病気や障碍で苦しんでいる上に、周囲から「がんばれ!」という一見励ましと思われる言葉によってさらなる苦しみを負わされている生徒たちは、「元気をもう一度」という言葉を選んだ。この言葉には、なかなか理解され得ない苦しみを担っている者であればこその優しさ、そして光を見いだす力強い響きがあった。
沖縄の校長先生、チャンさん、そして養護学校の生徒たち、みんな小さくされた者に寄り添おうとすればこそ、そうした人々が発する心の叫びに耳を傾けることができるのだということを教えられた。
目の不自由な二人の訴えを聞いた主イエスは、深く憐れんだ。まさに、チムグリサの心境だったのではないだろうか。

・閉ざされていた心に

主イエスが抱かれた憐れみには、一緒に苦しむというニュアンスがある。目が不自由なだけでも辛いだろうに、その上罪人とされて虐げられてきた二人への、まさに自分の体を切り刻むほどの痛切な思いやりが、そこにはある。
単なる同情心ではない。共に苦しみを分かち合い、自らの事として受け止め、そしてその苦しみから解放してくださろうという愛の行為へ主イエスは私たちを導いていく。
主イエスは二人の目に触れてくださった。すると、二人の目はたちまち見えるようになった。奇跡的な癒しの出来事だ。
でも、それだけではない。罪人として誰もが忌み嫌い、差別していたこの二人に対して主イエスだけはそうではなく、他の人と同じように接してくださり、この二人の訴えに耳を傾け、そして憐れんでくださったのだ。
それは、肉体的な意味でのいやしのみならず、彼らの閉ざされていた心に、光を与える出来事でもあった。罪人にも理解と憐れみをくださる方がおられる、このことこそがこの二人を真に苦しみから解放した出来事であっただろう。まさに、主イエスは罪からの解放者であった。
この真の解放者の姿に、周囲の人々は何を見ただろう。二人の叫びが私たちに向かってくる、「私たちは、誰の目を開けて欲しいと叫んだと思うか?」
自己中心的な歩みの中で、隣人の苦しみを理解せず、そこに寄り添おうとしない私たちに向かって、小さくされた者たちが叫んでいる、「みんなの目を開いて!」と。

・一つの体

だから、主イエスの姿を見て、小さくされた者は罪人だという先入観から解放され、今から自分も同じようにしようと志す者が現れて出てきたに違いない。そのことがまた、二人のいやしではなかったか。
教団、そして関東教区の震災復興支援は、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」という聖句に基づく祈りから進められている。被災地にとって、この祈りこそが大きな慰めであり励ましとなっている。なぜなら、私たちの声にも積極的に耳を傾けてくださる大勢の兄弟姉妹がいることに気づかせてもらえるからだ。
私たちの中に生きて働き、私たちを通してご自身を現される方は、その御手をもって人を結び合わされる。それは時に辛く苦しい試練の出来事の中で示され、ともするとそれまでの絆を引き裂くかも知れない厳しささえある。でも、その御手に触れられて開かれた瞳は、人を人としてしっかり見つめる力を帯び、必ずや共に生きる道を見いだしていくことになる。
それは、主イエスがこの出来事を通して私たちに教えてくださったこと。主は私たちと共におられる。私たちが強い時も、弱い時も。
(十日町教会牧師)

 

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