ヨーロッパの国家の特徴の一つは「福祉」を推進することである。国民の間でも「強い国家」(日本風にいえば「大きな政府」)を支持する風潮が強い。しかし「福祉」を国家任せにしようという訳ではない。日本では「国家」がやらなければ「民間」がやることになり、そのために新しいサービス(企業)を、という風に話が進む。しかしドイツでは既存のものが新しい役割を担えないか、とまず考える。そのときに一役買うことになるのが教会である。今回は編集部から「ドイツにおけるクリスマス」の取材をするよう求められた。これにヒントを得て、街のいわば裏側において厳寒でも変わらず奉仕(ディアコニー)する教会というテーマに取り組んでみたい。
「国民教会」を標榜するドイツのドイツ福音主義教会及びカトリック教会は、それぞれ国民の三分の一が教会員という巨大な教会で、元々社会から期待される役割は大きい。市民社会の形成に一役買うことを求められているのである。ドイツ福音主義教会は「ディアコニー」(奉仕)の側面を充実させるため、ベルリンとシュトゥットガルトにそれぞれ本部を設置している。今回はシュトゥットガルトにある「世界にパンを」部局のシュナイダー牧師に取材した。
「ディアコニーは三六五日なされるものです。クリスマスや冬だから特別に、ということは実際にはそれほどありません。しかしクリスマスそのものがドイツの文化に深く根ざしています。クリスマス休暇は皆が家庭に帰る日なのです。従って、それに合わせたディアコニーとして、ホームレスの彼らに帰る場所を用意したいと思っています。『教会は帰る場所に』と一口には言っても、彼らが着の身着のままで入ることができる教会はそれほど多くありません。シュトゥットガルトには一つあります。レオナルド教会というのがそれで、この教会はディアコニーに深く関わっています。『教会税』のお金とはまったく別に地域からの賛助を受けて成り立っているディアコニーで、二四日にここに来れば、どんな人も礼拝の後に温かい食事が食べられます」。
「普段この教会が関わる、貧しい人のためのディアコニーは、奉仕者たちによって閉店間際の商店に行き売れ残ったものを安く(時には無料で)そろえて彼らに提供するということです。他方で、この教会が開設し、主に貧しい人のためにコーヒーを供する喫茶店がありますが、そこはシュトゥットガルトでも一、二を争うおいしいコーヒーが出るということで有名です。貧しい人だからいつも二等のものをという発想は持っていません。それから、もう一つの特徴として、これらのディアコニーを受けるためには彼らが教会に来る、つまり教会は常に招待するという体裁を取っています」。
ディアコニーをする教会の主体性は、いつも危機にさらされるのだという。ディアコニーと教会が分離してしまうことを氏は最も警戒する。「助けを求めに来た人に、求めに応じたものを提供するのが教会の役割ではないでしょうか。このことによって教会の主体性は確保されるのです」。教会から奉仕者が出かけていくタイプのディアコニーももちろんある。経験的には、高齢の単身女性は、プライドがあって教会に助けを求めに来ないケースが多いという。そのための訪問が欠かせない。「しかし、そのための奉仕者も、教会から出発し、教会に戻るという体裁を取る必要があるでしょう」。実際、その体裁を取らない、元は教会だが今はディアコニーとして独立してしまった団体もあることを嘆いていた。
氏が他方で警戒するのが、信仰と行為の混同である。「ここは慎重に説明しないといけません。信仰なしにわたしたちの行為は決してできないと信じています。その点でこの『世界にパンを』の部局のメンバーは名目上全員教会員ですが、みなが教会を常に意識しているとは言えないことは遺憾に思っています。新しい人を雇うときには教会的背景にも注目し、ディアコニーの中でも礼拝の数を多く持つようにはしています。それから、教会の名において行うことは重要ですから、安易に他宗教と共同でのディアコニー団体を設立することにも懐疑的です」。
「しかし私自身は、いわゆる『福音派』の人が考えるように、伝道と奉仕を混同することは避けたいのです。たとえば『世界にパンを』のホームページをみても、キリスト教の信仰的背景は必ずしも強調されていません。教会(信仰)から出発して、行い(ディアコニー)の後で教会に帰ってくるというわけです」。氏はこう言って、キリスト教神学で「信仰の能動性」と「信仰の受動性」についての議論があるのだといって紹介し、氏自身の考えを次のように述べる。「教会の外で奉仕をしては教会で養われ、また養われては行う、という循環関係が重要なのではないでしょうか。両者は混ざることはないが切り離すこともできないのです」。
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取材を終えて感じたのは、シュナイダー牧師自身が抱えるジレンマである。教会が教会共同体の形成を行うのは当然として、それは市民社会の形成とどう関わるのか。礼拝とディアコニー、そして伝道との関係はどうなるのか。答えは一筋縄ではいかないように思った。
(上田彰報)