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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4596号】平和メッセージ

2006年2月11日

ルカによる福音書一九章三七~四八節

平和の王が来られる 小池磨理子

・エルサレムを前にして

主イエスはエルサレムを前にして、この都のために泣いて言われました、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…」「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら…。しかし、それは今おまえの目に隠されている」。
何とエルサレムを愛しておられたことでしょうか。そして何と無念な、胸の張り裂ける思いをいだいておられたことでしょうか。主イエスには、エルサレムの落城するありさまが見えていました。敵に囲まれ、城壁攻略のための堡塁が築かれ、敵兵がなだれ込み、人々が地にたたきつけられ、何一つ残らないほどに略奪され破壊されるありさまです。主は泣くのです。「もしおまえも、平和に向かう事柄を知ってさえいたなら…。しかし、それは今おまえに見えない・・・おまえは、神の訪れの時を知らない」。
ここに至る旅の途中で、主イエスはエルサレムについて言われたことがありました。領主ヘロデが主を殺そうとしていると知らされた時でした。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる」(ルカ一三・三四以下)。
そこで殺されることが分かっている、そのエルサレムに向かう主の足取りがたゆとうことはありませんでした。
「預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはあり得ない」「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」(一三・三三)。そう言って、主は、救おうとする自分にこたえないばかりか、かえって自分を殺そうとする都へ向かって行きました。今、旅の終わりが近づき、まもなくエルサレムの門をくぐろうとしています。

・平和の王がここに

弟子達は一大群衆となって、主イエスの後に続き、神を讃美します。みな喜んで、彼らが見た主のすべての力あるみわざ、奇跡のゆえに声高らかに歌います。「主の御名によって来られる方、王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。しかし、パリサイ派の人々はその讃美を黙らせようとします。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そう、と思っています。主は泣くのです。「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら…。しかし、それは今おまえの目に隠されている。・・・おまえは神の訪れの時を知らない」。
エルサレムは神の訪れの時を知りません。今、この日、エルサレムの本当の王として主イエスが来られ、神が訪れて下さっているのに、それを認めることができません。
ゼカリヤ書第九章に預言されている通り、主イエスは義なる者、神に従い勝利を得て、柔和で高ぶらない、ロバに乗る王であられます。エフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つお方、国々の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ平和の王がここにおられるのです。
それは祭司ザカリヤ(ゼカリヤのギリシャ語形)も聖霊に満たされて預言したことでした。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。・・・この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、・・・我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ一・六七~九、七八~九)。
まことに、神は「すべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて」くださいました(使徒一〇・三六)。囚われ人が解放され、見えない人の目が開かれ、病人が癒され、死人がよみがえり、足の不自由なものは歩き、貧しいものは福音を聞き、主の恵みの年が告げられました。
シメオンは安らかに去り、信じて癒された女達は平和とともに送り出され、怯える弟子達に平和が祈られました。

・みずからの血による

このようにエルサレムは「ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事、つまり、ナザレのイエスのこと」(使徒一〇・三七以下)から、平和にいたる道を知り得るはずでした。「あがなう者としてシオンに来た」主イエスを迎えて罪の赦しを得、神との間にも人との間にも平和を与えられて、その平和を告げるものとなるはずでした。「しかし、それは今おまえの目に隠されている・・・おまえは神の訪れの時を知らない」。「ああ、この日に、おまえも平和への道をわきまえていたなら…」と、主はエルサレムのために泣いて言われるのです。
エルサレムに入って真っ先に主イエスが行かれたのは神殿でした。そこは祈りの家ではなく、まずもってそこから商売人を追い出さなければならない、強盗の巣でした。
敵対者たちが命をねらいます。それでもなお、主イエスは神殿でご自分の民を教え続け、最後まで歩みを止めません。
そしてその行き着くところは十字架でした。みずからの血による新しい契約を結んで私たちを救い、恐れることなく主に仕えさせてくださるためです。そのようにして、神はその民を訪れ、平和の王として臨んでくださいました。

・十字架の憐れみだけが

人は何によって支配されれるでしょうか。夫婦や家族、友人など、どんな小さな集団であっても、何が私たちを治めることができるでしょうか。権力や武力、法律や欲望、恐怖によって治められるのでしょうか。十字架の主の憐れみだけが、私たちを治めるのではないでしょうか。イエス・キリストを死人の中からよみがえらせた神だけが、私たちの中の弓を折り、全世界に平和をもたらすのではないでしょうか。
主イエスは今日ここに、平和の王として来ておられます。主を迎えて悔い改め、神の訪れの時を救いの日とするものは、高らかに神を讃美して言うでしょう「主の御名によってこられる王に祝福あれ、天には平和、いと高きところには栄光あれ」と。それによって私たちは、クリスマスの夜に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、みこころにかなう人にあれ」と歌った天使たちに答える者となるでしょう。平和の福音を宣べ伝え、人々に平安を祈りながら、天と地との間にこだまする讃美に入れられるでしょう。
それとも私たちは、主イエスにおいて恵み深く御臨在下さっている神の訪れをわきまえず、裁きのもとに留まり続けるのでしょうか、主に涙させるほどに。 (手宮教会牧師)

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