エフェソの信徒への手紙 1章11~14節
神の栄光をあらわす 山北宣久
・主の年
新年を生涯の中に加えられたことを共に感謝したい。さらにみ栄えをあらわすことにおいて多様でありつつ一つでありたい。
暦によって世界の年の数え方はいろいろである。
ユダヤ暦では今年は五七六七年だ。同様にバビロニアでは(ナボナサール暦)二七五四年、インドでは(シヤカ暦)一九二九年、イスラムでは(ヒジュラ暦)一三八五年となる。
日本は敗戦で廃止されてよかったが皇紀二六六七年ということに危うくなるところであった。
そんな中私たちは主の年二〇〇七年を迎えることがゆるされたのである。
いついかにあろうとも主が共にいて下さる、神が主イエスにおいて全てをみそなわせて下さる、それゆえに安んじて歩むことができる。感謝と喜びをもって主の年二〇〇七年を新年として迎えられたのだ。
私たちは「教団の過去、現在、将来」との主題のもと総会を終えて新しい年を迎えたのだが、サン・フランソワ・サル(一七世紀の仏の説教家)は語った。「過去は神のあわれみに/現在はわれらの誠実に/将来は神の摂理にゆだねるべきである。」
読み替えればこうなるであろう。
「感謝をもって過去を/誠実をもって現在の課題に取り組み/信仰をもって将来を仰ぎ見つつ導かれ行こうではないか」
この如くでありたい。
・健 康
世の人が最大の関心を寄せているものの一つは「健康」であろう。「健康回復」「健康維持」「健康増進」が初詣でも祈られたはずである。
この健康を願うことは我々にとっても例外ではない。ところで聖書の最大関心事は何か。それは「救い」といって差し支えないのではないかと思われる。この救いという言葉はへブル語のヤシャーにしてもギリシャ語のソーテールにしても共に本来は「健康にする」という意味を持っている。
つまり人は神によって救われると精神も肉体も共に健康になるということを示している。
救いは一つの経験ではなく、我とのすべての領域における人間回復であり、それは究極的には神の恵みによってなし遂げられるものなのである。
ここでキリスト者の健康について考えてみると四つのバロメーターが挙げられるのではないか。
①聖書に親しみ②常に祈り③礼拝に参加し④神と人に仕えようとする志を持ちつづける、ことになるのだろう。
この四つに関心が向かないということになれば霊的には病んでいるといえる。
・ほめたたえる
健康的なクリスチャンについて教団の聖書日課たる今日の箇所において「神をほめたたえる」という言葉で表現していた。「神の栄光をたたえる」「『神の栄光をほめたたえる』(口語訳)」という言葉が重ねられる。
ここでは「以前からキリストに希望を置いている私たち」としてのキリスト者と「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて約束された聖霊で証印を押された」異邦人とが神によって一致させられることによって、キリストの教会が形成されることを喜びさんびしている箇所である。
では「ほめたたえる」とは何か。その存在を肯定し心から喜び、感謝することである。神が生き存在していて下さることを心から肯定し、心から喜び、感謝すること、これがキリスト者の使命だといえる。
・否定を肯定に
現代は至るところに於いて否定の横行している時代である。すべての怒り、争いは相手の存在を根本から否定し去ろうという所から生ずる。相手を否定し、抹殺することによって平和を達成しようとする。ここに人間の倒錯した姿がある。
しかし神は大いなる肯定者、良しと言い給うお方。
神は世界と人間を創造しこれを良しとしたもうた。そして独り子イエス・キリストは十字架と復活とを以って本来否定されるべき人間存在に対してあなたは良しとされているのだと根源的に認め、肯定し、その存在を喜びたもうて下さった。この神の側の大いなる愛の肯定をもって全地に吹きすさぶ否定の嵐を鎮めていく、これがほめたたえることである。
神が私たちのために存在していて下さることを心から感謝し肯定することにより、お互いがまたお互いの存在を肯定し、お互いを受け容れ合っていく、これが神の栄光をたたえることに通じていく。否定を肯定に、この神の恵みを大胆に証ししていく教団の歩みでありたい。
・証印そして保証
「そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」
「証印」というのは大切な手紙や品物を送る時、内容の間違いなさ確かさを証明する際に押される封印を意味し、国王の書簡や公文書に用いられた。
聖霊の証印を押されたというのは、その人が神の所有であるという証印をすでに受けていることだ。
またこう記されている。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」
この「保証」という言葉は当時の商業用語で「手付金」或は「分割払いの第一回分」という意味で、やがて全額が支払われて、その契約が果たされることを保証するとの意味である。
聖霊によって私たちが神の国を継ぐことを保証すべく万全を尽くして下さった。そうまでする価値のある者として私たちを愛し、赦し、受け容れ給う。
かくまで神に愛され、主に執り成され、聖霊に保証されている者ならば、大いに奮発し、神の栄光をたたえていかざるをえない。
時代は常に暗く、ますます愛が冷えていく。それが罪の報酬である。であればこそ、私たちは三位一体なる神の救いに固着し、流れに抗して神の栄光をたたえていこうではないか。
暗きにこそ光はあらわれ出るものだ。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ福音書一章五節)のみ言葉をクリスマスに確認し、新年に向かった私たちである。ならば、共々力強く、神の栄光をあらわす働きへと思いを寄せ心新らたにそのために用いられるべく志を拡げていくはずである。
主よ、我々を用い給え!
(聖ヶ丘教会牧師・日本基督教団総会議長)