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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4619号】平和メッセージ

2007年2月3日

マタイによる福音書24章3~14節

生ける主による希望 小宮山剛

・終わりに向かう世界の中で

この世は終わりに向かっている。私たちの住む地球という天体が、やがて膨張する太陽にのみ込まれて消滅すると科学は解説する。しかしそれ以上に、主イエスが「終わりが来る」とおっしゃり、神がこの罪と不法に満ちた世界を終わらせられるという聖書の言葉によって、確実に言えることである。
終わりに向かっている世界の中で、主イエスは「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」と予告された。
なんという恐ろしいことだろうか。人間が過去の過ちを学習することによって世の中がだんだん良くなるとおっしゃったのではない。むしろ逆に愛が冷えて悪くなり、戦争も起こるとおっしゃったのだ。
そして私たちは、事実その通りになってきているのを見ている。それは堕罪以来の人間の罪に起因するものに他ならない。したがって、世の中から戦争や悪がなくならないことを驚き怪しむ必要はない。
しかし同時に、「だからもうどうでもよい。どうせこの世は終わるし、私も死ぬのだから」とあきらめたり、自己中心になることを、もちろん主は望んでおられない。
「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2・4)と神が終わりの日の預言を与えられ、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)と主が言われる時、私たち自身が平和を願い求め、また主の平和の中に生きるよう招かれている。

・キリスト教は無力か

かつてベトナム戦争があった。子どもの頃から教会学校に通っていた私は、アメリカ軍が北ベトナムを激しく空爆し、多くの犠牲者が出ているとの報道を見て、あるキリスト教ラジオ放送に質問の手紙を書いたことがあった。
「アメリカはキリスト教国なのに、なぜ戦争をするのですか?」と。当時私は中学生であった。
間もなくして、丁寧な返事の手紙が返ってきた。その内容は、回答者自身もこの戦争に疑問を持っているということと、「キリスト教国だからと言って、みんなが本当にキリストを信じているわけではないのです」ということが書かれてあった。
私は、なるほどと思った。本当にイエスさまを信じていれば、あんな戦争は起こらないのであって、「本当に」信じていないところに問題があるのだと納得したのだった。
中学生だった私にとって、キリストを本当に信じている者が戦争をするということは考えられないことだった。
それから数十年。このたびのアメリカをはじめとした多国籍軍によるイラク戦争が始まった時、ブッシュ大統領は「敬虔なキリスト教徒」であるとの報道がなされ、こちらの富山の地元紙でも、戦争をするキリスト教と平和を好む仏教というような比較の論調が目立ち、困惑させられた。
その時、あの中学生の時の疑問を思い出したのである。
「敬虔」とはいったい何をもって敬虔と言うのかは知らないが、そういう大統領が「目には目を」式の復讐にしか見えないイラク戦争に突入した時、キリスト教は実際の行動を抑制するには無力なものであるとの印象を多くの人が受けたに違いない。
しかし、神が神の国の平和へと導かれ、主イエスが愛とゆるしの十字架へ上られた以上、「本当の」キリスト教がゆるしと平和を希求するものであることに違いはないはずである。

・復活のキリストとの出会い

人間の決意や思想といったものが、人間を良いほうに変えるには、あまりにも無力であることを聖書は強烈に記している。
ペトロは、主の受難の出来事の前、どれほど主イエスに従っていくことを強く決意表明していたことだろうか。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなったとしても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26・35)とまで言ったのである。
そのペトロが、まだ舌の根も乾かぬうちに、主のことを三度も否認したのだった。
どんなにすばらしい教えを聞いても、「敬虔に」聞いたとしても、それが思想や主義主張にとどまっている限り、悪魔の誘惑の前に全く無力であることを鋭く物語っている。私などは、禁煙の一つさえ自分の意志では実行できなかったことを思い出す。
しかしその同じ弱いペトロらが、迫害を乗りこえて福音を宣教し、最後は殉教の死を遂げるに至った。それはペトロの意志が強くなったからではなく、ただ復活された主がペトロと再び出会い、聖霊を賜ったからに他ならない。使徒たちは聖霊によって共におられる復活のキリストにすがり、導かれたのである。
すべては復活の主と聖霊の奇跡なのである。

・生ける主と共に歩む

パンを得るために争いになる。少ないパイを奪い合って戦争となる。背に腹は代えられない、と言う。やられたらやり返すという。たしかに、黙っていては他人に取られてしまうのがこの世である。
しかし、たった五つのパンと二匹の魚によって大群衆を養われた主は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな」(マタイ6・33)とおっしゃる。 ここに主による転換が起きる。まず生活を満たしてから神を求めるのではなく、まず神を求めることによって、主ご自身が私たちが生きるために必要な物を奇跡的に与えてくださるのを見るというのである。
主義主張でも思想でもない。人生訓でもない。それは生きておられる復活のキリストの働きである。荒れ野のイスラエルの民を、主がマナによって養われたように、生ける主が必要な物を備えてくださることを信じてすがるところに、道が開けていく。ここに希望がある。背に腹は代えられないという常識が覆される。報復の連鎖の断ち切られる道がある。
愛の冷える時代の中で、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と主は約束なさる。聖書においては、「耐え忍ぶ」ということは、単に我慢をするということではない。神の国の約束を信じて、希望をもって主と共に進むことである。
終わりが来る前に「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」と主は言われる。福音、喜ばしい知らせである。終わりの時代においても、「本当に」生ける主がこの弱い私たちを守り、助けてくださるのである。感謝をもって、福音を宣べ伝える者でありたい。
(富山二番町教会牧師)

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