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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4624号】イースターメッセージ

2007年4月14日

マタイによる福音書28章1~10節

走ろう、復活に向かって

嶋田順好

・不安の源泉

『死ぬ瞬間』の著者であり、死に逝く末期癌の人々と対話をし続けたエリザベス・キューブラー・ロスは「科学が進めば進むほど、死の現実を恐れ、否認する傾向が強くなるように見える」と指摘しています。
なぜでしょうか。確かに、自然科学の力によって、現代では格段に寿命は伸びました。しかし、どんなに進んだ科学技術をもってしても、死そのものの克服は不可能です。
だから、現代人は、解決不能の問題を、あえて無視し、片隅に追いやろうとするのです。そこにこそ、現代人の大いなる不安と恐れの源泉があるのではないでしょうか。
しかも、その不安と恐れは、単に生物としての死がもたらすものではなく、より根源的には、命の創り主なる神から切り離されている罪がもたらす不安と恐れと言えるのです。

・神の御業への畏れ

天使から主イエスが復活なさったことを告げ知らされたマグダラのマリアともう一人のマリアの様子を、マタイは「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と証言しています。
ここで心に留めておきたいことは、「恐れながらも大いに喜び」と記されていることです。復活の知らせは、ただ単に喜びの出来事ではありませんでした。女たちは、「畏怖の念」をも抱かされたのです。なぜなら女たちは、最も深い意味において人間の力でもなく、自然の力でもない、ただ神の力ある御業に直面したからです。
主の復活について、「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」、「あの方は死者の中から復活された」と記されています。しかし原文では「あの方は死者の中から復活させられた」と受動態が用いられています。
それなら誰によって復活させられたのでしょうか。言うまでもなく、父なる神です。復活は神の御旨によってなされた力ある御業です。だからこそ、何よりも恐ろしい。死者の中から、主を復活させることができるのは、神のほかにはおられません。つまり、復活の出来事に直面する全ての人間は、神の御業に触れ、そのことを恐れるのです。
あらゆる意味において復活は人間には思いもよらぬ出来事でした。そのことを私たちは謙虚に受けとめる者でなければなりません。

・喜びなさい

恐れと喜びに捉えられながら、この出来事を弟子たちに知らせるため一目散に走り出した女たちを、もっと恐れさせ、喜ばせる出来事が起こります。
あたかも二人のマリアを待ち伏せするかのように復活の主イエスが、ご自身を女たちに現してくださったからです。
九節に「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」とありますが、原文では、「すると」のあとに、はっきりと「見よ」という言葉が記されているのです。したがって、ここを直訳すれば、「走って行った。すると、見よ」となります。
明らかにこの「見よ」には、思いもかけない驚くべき出来事が生起したとの強調の思いが込められているのでしょう。しかも「イエスは行く手に立って」と訳されているところも、本来この動詞が持っているニュアンスを生かせば「イエスは出迎えて」と訳すことができるのです。
きっとこの時の復活の主は、満面に笑みをたたえ、両手を広げて、女たちを出迎えて下さったのではないでしょうか。
そこで主は、女たちに「おはよう」と声をかけました。この言葉は、当時、日常の挨拶の言葉として用いられていたものでした。ですから「おはよう」と訳されているのです。しかし、この言葉を直訳すれば「あなたたちは喜びなさい」ということになるのです。いつもの通りのいつもの挨拶の言葉が、復活の主から発せられたこの時ほど、本来、この言葉が持っていたであろう喜びの響きを奏でたことはありません。

・究極のどんでん返し

「あの方は死者の中から復活された」との喜びの知らせを伝えるために脱兎のごとく、弟子たちのもとへと駆け出した二人のマリアを見つめていると、私は、究極のどんでん返しということを思わずにはいられなくなるのです。
二日前の夕方、主イエスの葬りに立ち会った二人のマリアは「そこに残り、墓の方を向いて座って」いました(マタイ27・61)。安息日の始まる夕闇が迫っても、女たちは主の墓の前に座ったまま、動こうともせず、深く深く悲しみの中にうずくまるのです。遺体でもよいから、ただひたすらに主イエスの傍にいたかったのです。
愛する者の死、それは誰にとっても人生の歩みのなかで、最も耐え難い悲しみと絶望の源泉です。人間存在の根源的なはかなさを痛切に思い知らされる出来事です。ましてその死が冤罪による見せしめの処刑死であれば、なおさらのことです。
この二人のマリアの悲しみは、私たちが人生の旅路で、愛する者、親しき者を死によって奪い去られた時の悲しみと絶望を代表している嘆きと言えるのではないでしょうか。
しかし、その悲しみと絶望は打ち砕かれ、うずくまっていた二人のマリアが、今は走っています。駈け出しています。
抑えようにも抑えがたい喜びに突き動かされ、「あの方は死者の中から復活された」との勝利のメッセージを携え、揺るぎない命の希望のメッセージを携えて。
この二人のマリアと共に、罪と死の力に逆らい、死から命へ、滅びから勝利へと突破すること。その一筋の道を走っていくことこそ、イエス・キリストの教会のたどる道です。
走り出した女たちの姿を見つめていると、訳もなく星野富弘さんの次のような詩が思い起こされてくるのです。

「思い出の向う側から
一人の少年が走ってくる
あれは白い運動ぐつを
初めて買ってもらった日の
私かも知れない
白い布に草の汁を飛び散らせながら
あんなにも
あんなにも嬉しそうに
今に向かって走ってくる」

時代も、場所も、生起した出来事も全く違うのですが、この詩がいつしかこんな風に私には聞こえてくるのです。

死の悲しみと絶望の向こう側から
女たちが走ってくる
あれは墓の前で天使から
主の復活を知らされた朝の
二人のマリアかもしれない命の望みにはじけるようにあんなにも
あんなにも嬉しそうに
〝復活〟に向かって走ってくる
(青山学院宗教部長)

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