教区総会や常議員会はじめ教団のいろいろな会合で耳にする言葉の一つに「多様性」がある。
合同教会たる教団としてキーワードの「多様性」があるのは当然といえば当然だろう。
しかし、よく考えてみよう。この言葉は「なんでもあり」の同義語ではない。多様性とは信仰的一致の中から生ずる恵みの果実なのだ。
「信仰は一つ、証しは多様」という言葉こそ教団の合言葉だ。信仰告白においては一致している。そして証しはまさに多様で「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」(フィリピ3章16節)となるのであろう。
しかし、ややもすれば「信仰は多様、証しは一つ」になりかねない。復活を信じなくてもいい、でも「キリスト者ならこの政治社会的課題に反対すべきだ」ときめつける。かくして画一化がおこる。
一致と画一化と区別せねばならぬように、多様性と分裂の相違にも注意せねばならぬのではないか。
多様性といっているが、実は信仰の不一致ゆえに殆んど分裂状態を来たらせていることに無感覚であってはならない。
多様性という言葉もかくして丁寧に用いなくてはならない。教団の信仰告白という垂直の線、タテ軸に貫かれてこそ、水平の線、ヨコ軸としての多様性の豊かさを享受していく。これは偏狭な教条主義者が口にするタワゴトだと言えるのだろうか。
(教団総会議長 山北宣久)