教会の近くに住む教会員が召天され、当然キリスト教の葬儀が行われた。葬儀にはご近所の皆さんも多く参列された。所用で電気屋さんに寄ると、葬儀には列席されたと言われ、キリスト教のお葬式はよいものですね、と言われる。お話も良く分かりましたとも。
葬儀は召天された方の証を示されるのであるが、それと共に社会の人々に聖書のメッセージを伝えることができる。伝道が深まるときでもある。
そして、葬儀と共に一般の皆さんにメッセージを示すことができるのは結婚式である。
幼稚園の先生が結婚することになり披露宴に招かれた。相手の彼は小学校の先生である。彼の主賓は校長先生で、僧侶でもあるということである。教育者であり、宗教家である校長先生は、さすがに感銘深く祝辞を述べられた。終わったとき、随分長いなあと思った。
次に花嫁さんの主賓である園長(牧師)の祝辞である。園長は、キリスト教主義幼稚園で働いた彼女が、聖書に基づき、一人の存在を大切にしながら子ども達と関わったことを話し、そのことからレギオンを宿す人を例にした。イエス様は二千匹の豚を犠牲にして、一人の存在を大切にしたことを示したかった。どうやら校長先生以上に長祝辞になったようである。
その後、また幼稚園の先生が結婚することになったとき、「豚の話はしないでくださいね」と言われてしまう。はて、それでは雀の話でもしようか。
(教団総会書記 鈴木伸治)