【4790号】宣教師からの声 番外編 横浜共立学園と3人の女性宣教師 坂田 雅雄 (横浜共立学園学園長)

 1861年11月、神奈川に上陸した宣教師ジェームズ・H・バラは、7年間の横浜生活をする中で、女性の教育が充分になされていない現実や、日本女性と外国人との間に生まれた子どもたちが、周囲から軽蔑され疎外され、物乞いや放浪している哀れな姿を見た。そこでJ・バラは米国のキリスト教関係の団体に、子どもたちの救済と女子教育を強く訴えて、女性宣教師の日本派遣を熱心に要請した。

 その要請に応じたのがWUMS(The Woman’s Union Missionary Society of America for Heathen Lands 米国婦人一致外国伝道協会・女性のための女性のミッション)であり、3人の女性宣教師がその要請に応えたのだった。プラインは「キリストが私を呼んでいる(召命=calling)」、ピアソンは「我、もし死ぬべくば、死ぬべし」(エステル記4章16節)、クロスビーは「全身全霊を注いで、主が命じられた仕事(使命=mission)につくため」との思いであったという。

 横浜に到着した3人は、とりあえず山手のホテルで準備をすることにした。3人は家探しをしていたが、気に入った家はなく、バラの持ち家である山手の四八番館を借り、1871年8月28日、「アメリカン・ミッション・ホーム」が正式に開設された。

 リーダーのプラインは51歳、総理として、経営と塾舎の取り締まりをする。ピアソン39歳、校長兼教授。クロスビーは38歳、会計事務兼教授を担当する。このように事務分担が定まり、3人は心を合わせてよいホームを作ろうと努力した。

 しかし、開設してもしばらくの間は日本の少女はほとんど来なかったが、どうして来ないのかわからなかった。1871年当時、日本では全国至る所の高札所に「切支丹宗門堅く禁制の事」という制札が掲げられていたので、日本の子どもたちが来るはずはなかった。

 1871年10月、当時の漢学者・文学博士として有名な中村正直(敬宇)が、ミッション・ホームに宿泊した。

 正直は、ホームの3人の米国女性が日本人には見られないしっかりとした躾をし、愛情を注いで幼児の世話をしているのを直接に見た。また、3人から話を聞いて非常に感動して、我が国最初の「生徒募集・入学案内」の一文を書いて、ミッション・ホームを社会に紹介した。

 『この教授所は米国婦人伝道会社が作ったもので、3人の米国人女教師が、日本人、外国人の差別なく子どもを預かって養育してくれる。通学でも寄宿でもどちらでもよい。3歳以下の子どもは引き受けないことになっているが、母親のいない子は引き受ける。寮費と授業料は月10ドルから15ドル、通学生は月4ドル。女教師はみな親切で、大変子どもを愛してくれるから、家で育てるよりもよい。』

 1872年、生徒数が増加したため、プラインたちは広い建物と敷地を探した。山手212番の建物と敷地であった。横浜の最も魅力的な角地の広い土地、裏側にあたる北東にはS・R・ブラウンの邸宅があった。西側は崖で、その先は日本人が住んでいた。3人の女性宣教師は将来を見通し、勝れた先見性と決断力でこの土地を得たのである。現在横浜共立学園が建っている土地である。3人の女性宣教師は、広い敷地に次々と校舎を新築した。

 当時外国人の多い港町横浜の人口は6万人余に増え、活気に満ちていた。積極性のある横浜商人が多く、女子にも英語を勉強させよう、学問させよう、という気持ちが強かった。3人の女性宣教師の来日の目的である日本女子教育は時宜に適したものであった。ホームの入学希望者が多くなってきた。

 プラインらは、英語教育を通して伝道し、日本の女性たちに新しい文明、新しい教育の光をあてようとした。 入学した生徒たちは今まで知らなかった自由な明るい雰囲気、規則正しい生活、西洋流の礼儀作法、キリスト教からくる高い道徳を、先生がたから身をもって教えられた。自立の精神が知らず知らずのうちに養われた。

 ミッション・ホームの日本の正式な名称は「日本婦女英学校」であったが、1875年ごろ「共立女学校」と改称した。「共立」はUNIONの日本語訳であり、超教派のキリスト教学校として現在に至っている。英語と音楽の盛んなことはその当時からどの学校より数段勝れていたと言われている。

 日本におけるバイブルウーマンの養成機関の草分けの一つはWUMSによって、1881年にミッション・ホームのある横浜山手212番地内に開設された偕成伝道女学校、後の共立女子神学校である。ピアソンは伝道の働きに専心するため共立女学校校長を辞任したい旨を申し出ていたが、適任者がいないためにしばらく両校兼務ということになった。ピアソンの人柄、伝道への熱い思いが、偕成伝道女学校を作らせ、伝道基地の設置へと伝道の働きを推し進めていったことは確かである。

 ピアソンは、1891(明治24)年に共立女学校をブルックハート(Harriet.I.Bruckhart)に委ねて偕成伝道女学校に専念する。彼女はそれまで以上にバイブルウーマンの養成と直接伝道に力を注ぎ、偕成伝道女学校の働きも充実していった。

 その後1907年に偕成伝道女学校を共立女子神学校と改称し、さらに1943年共立女子神学校は日本女子神学校へ合同し、多くの女性牧師を排出することとなった。戦後再開された共立女子神学校は、現在の東京基督教学園に継続されている。
(教団ニュースレターより)

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