究極のロールモデル
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
ヨハネによる福音書13章12節~15節
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広尾教会
川俣 茂 牧師
東京都渋谷区にあります広尾教会の川俣です。昨年3月まで大阪のキリスト教学校(中・高)の聖書科教諭、宗教主事を勤めていました。
今からもう20年近く前になるでしょうか。授業の空き時間に図書室で新聞を読んでいた時、ある文章を読んでハッとさせられたことがありました。要約すると次のような内容だったと記憶しています。
これまで関わってきた大人たちの中に「大人になって楽しいこと」を語ってくれた人がまったくいませんでした。だれもが異口同音に「社会は厳しい」「君たちはもうすぐ大人なんだから」と大人になることの厳しさを語りました。それは事実なのでしょう。しかし、大人になることの負の面だけを強調し、よい面を語ってくれないのでしょうか。大人になることがつらいのは、その疲れた顔を見ていればわかります。(『産経新聞』大阪版 2007年12月5日付夕刊 「風」)
中・高に勤める者としては「確かに」と思うと同時に、進路指導、キャリア教育という点からすると「では実際何をしてきたのか」という問いを突き付けられているような思いに襲われました。現代社会に生きる子どもたちが抱えるさまざまな課題・問題の原因・理由も見えてきたような気がしました。私たち大人が「いかに楽しいか」「どんな喜びがあるか」といった「よい面」を子どもたちに示すことができていない。大人自身が疲れてしまっていて「楽しさ」「喜び」といった「よい面」をどこかに置いてきてしまっている、忘れてしまっている、大人として悲しい現実を突きつけられた瞬間でもありました。
しかし私が最も重要だと感じたのは「ロールモデルとなる大人が周囲にいない」ということでした。以前はそれが「近所の人」や「学校の先生」だったり、「年上の親戚」や「何らかの形でよい影響を受けた人」というように、「いつか」「どこかに」「誰かいた」のでしょうが、現実よりもバーチャルな世界での関わりが中心となっているといわれるこのネット社会で、人と人との関わりが希薄になってしまっている状況ではそうもいかなくなってしまっているのでしょう。しかも、本来ならば時代の変化とともに「ロールモデルとなる大人像」も変化していくはずですが、変化どころか、「ロールモデルとなる大人像」そのものが消滅してしまい、子どもたちには「将来に対する不安」だけがつきまとっているのが現実なのでしょう。
しかし聖書には信じる者にとっての「ロールモデル」が多数登場します。もちろん人ですから、100%完璧な人ではなく、それこそ人間らしい面も持ち合わせているのも事実です。そのような中でも究極の「ロールモデル」がいます。それが主イエスです。もちろん「信じる対象」としての神の子、救い主としての主イエスがいます。その主イエスはこう語ります。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。「信じる対象」としてはもちろん、私たちの「模範」としても主イエスはいてくださるのです。
この聖書箇所では先生である主イエスが弟子の足を洗うという、ありえない状況が展開していましたが、あえてこういう行動で「模範」を示したのです。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」と主イエスは言っていますが、私たちは同じことができるでしょうか。一度、教会学校でこの場面を実演してみたことがあります。バケツに水を汲んでみんなの間を「足を洗いますよ」と言って回る。「本当にやるんですか?」と子どもたちも保護者もみんな驚いていました(実際には洗いませんでしたが)。当時でも現代でも驚かれるようなことを実際に行い、「模範」を示したのが主イエスです。
その主イエスは十字架につけられ、死んでしまいます。主イエスはそのような死を単に迎えただけではなく、他の聖書箇所では「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15章13節)とも、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書5章44節)とも言っています。「友のために命を捨て」「敵を愛し」「自分を迫害する者のために祈る」。これも「模範」と言われたら、私たちは「絶対できません」と断言してしまうでしょう。しかしこれこそが「究極の愛」の姿なのです。
いくら「模範」であっても、そのような「究極の愛」を私たちが実行できないのは主イエスも承知の上です。そのような私たちですから、思いっきりダメ出しされそうですが、主イエスはそんなことはしません。むしろ「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とまで言ってくださる方(マタイ福音書11章28節)。「それでいい」「無理はしなくていい」と言ってくださる。これこそが「愛」の形であり、私たちには真似できないといっていいかと思います。
主イエスはそのような私たちのために十字架にかかって死んでくださった。でもそれで終わりではありませんでした。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ福音書24章6節)。そこからすべてが始まっていったのです。
私たちはその「ロールモデル」に、「模範」にどこまで近づくことができるでしょうか。いや、「近づく」なんておこがましいくらいです。私たちには「究極のロールモデル」「究極の模範」が存在するだけでも感謝すべきなのかもしれません。
しかしそのような主イエスも、実は十字架にかかる直前、ゲツセマネというところで祈る際、「イエスはひどく恐れてもだえ始め」ただけではなく、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと」祈っていました(マルコ福音書14章33-34節)。死、しかも十字架での死に直面することによって、「友のために命を捨て」「敵を愛し」「自分を迫害する者のために祈る」とは言っても、「本当にそれでいいのか」と自問自答しているようです。それは主イエスが一人の人でもあることを示しています。つまり私たちから完全に浮いてしまっているような存在ではなく、私たちと同じように喜び、悲しみ、苦しみ、悩んでいた。自分と同じように喜び、悲しみ、苦しみ、悩んでいい。そういう姿を私たちに示している。そういう意味では、主イエスは私たちの「友」であり、私たちの人生の「ロールモデル」「模範」でもあるのです。
その「究極のロールモデル」「究極の模範」を私たちに遣わした、与えてくださったのは神です。その「神の愛」が私たち一人ひとりにも注がれています。神に感謝しつつ、「究極のロールモデル」「究極の模範」に少しでも近づきたい、少しでも倣って歩みたい、そう願っています。






