「正しさ」を超えて
それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 こう書いてあります。
「主は言われる。
『わたしは生きている。
すべてのひざはわたしの前にかがみ、
すべての舌が神をほめたたえる』と。」
それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
ローマの信徒への手紙14章10~23節
旭川星光伝道所・美馬牛福音伝道所
齋藤麻実 牧師
皆さんは、良かれと思ってやったことが、なぜか相手を困らせてしまったり、逆に自分が親切をされて、ありがたいはずなのに心が重くなってしまった……というような経験はありませんか?
「自分は正しいことをしているはずなのに、どうしてうまくいかないんだろう」。そんな葛藤のヒントになる言葉が、聖書の中に書かれています。今日は、私が経験した「失敗談」も交えながら、本当の意味で「共に生きる」とはどういうことなのか、一緒に考えてみたいと思います。
聖書の中に、パウロという人が書いた手紙があります。その中に、当時の教会の人間関係のトラブルについて触れている箇所があるのです。
当時の人たちにとって、何を食べるか、どの日を大切にするか、というのはとても大きな問題でした。
新しい価値観を受け入れて「何を食べても自由だ!」と振る舞う人。
一方で、これまでの習慣を大切にして「特定のものは食べられない」「この日は特別だ」とこだわる人。
パウロは、前者を「信仰が強い人」、後者を「信仰が弱い人」と呼びました。でも、これは「どっちが偉い」という意味ではありません。
問題の本質は、自由な人が「そんな古い考えに縛られてるなんてダメだな」と相手を見下したり、逆に慎重な人が「あんな自由奔放なのは間違っている」と相手を裁いたてしまうことです。
お互いに「自分の生き方が正しい」と信じているからこそ、衝突が生まれてしまう。これって、今を生きる私たちの日常でもよくあることだと思いませんか?
私にも忘れられない経験があります。
わたしの所属している教会では、毎日放課後に教会の礼拝堂を開放しています。そのため、毎日15時になると近所の子どもたちが遊びに来てくれています。数年前、事情があっておうちで満足にご飯が食べられない子が、教会に遊びに来ていました。その子は会うたびに痩せていき、いつもお腹を空かせていました。「この子が教会にいるときくらいは、お腹いっぱい食べさせてあげたい」……そう思った私は、お母さんに許可をもらって、その子が来るたびに食事を準備するようになりました。
私はそれが「正しいこと」だと信じて疑いませんでした。その子のために祈り、一生懸命動いていました。
でも、ずっと後になって、私は衝撃的な事実を知ることになります。
そのお母さんは、実はこう思っていたのです。「どうしてこんな中途半端な時間に、お腹いっぱい食べさせるんだろう……」と。
せっかくお母さんが準備した夕飯を、その子は食べなくなってしまった。お母さんは悲しく、不信感を抱いていたんです。でも、食べさせてもらっている立場だから、何も言えなかった。
私は、その子のことは考えていたけれど、お母さんの気持ちを想像できていませんでした。「お腹を空かせている子を放置するなんて」という、世間一般の「正しさの物差し」で相手をジャッジしていたのです。
私の「善意」は、お母さんにとっては、逃げ場のない「暴力」のようになってしまっていた。もし彼女が勇気を出して話してくれなければ、私はずっと「良いことをしている自分」に酔いしれていたかもしれません。
聖書には「受けるよりは与える方が幸いである」という有名な言葉があります。誰かの役に立てることは、確かに喜びです。
でも、一方で「受ける苦しみ」というのも、確かにあるのだと思うのです。
いつも「与えられる側」に固定されてしまうと、人間関係が「対等の関係」ではなくなってしまいます。そこには目に見えない上下関係が生まれてしまうのです。
片方が「助けてあげる強い人」、もう片方が「助けてもらう弱い人」。
その間に「愛」ではなく「正しさ」だけが置かれたとき、私たちは知らず知らずのうちに相手を裁き、分断してしまいます。
大切なのは、「何をあげるか」という目に見える形ではなく、相手がどんな背景を持って、どんな気持ちでそこにいるのかを「想像すること」ではないでしょうか。
聖書の今日の一節に、こんな言葉があります。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」
これはつまり、大切なのは「ルールを守ること」や「正しい行動をすること」そのものではなく、その先にある「平和」や「喜び」、つまり「良い関係」なのだということです。
立場が違っても、考え方が違っても、お互いに「神様に作られた尊い一人ひとり」として認め合うこと。
自分の「正しさ」を一度脇に置いて、「この人はどう感じているんだろう?」と寄り添うこと。
そこにこそ、本当の意味で——聖書が言う「神の国」——があるのだと私は思います。
人は一人では生きられません。だからこそ、神様は「もう一人の人間」を作られました。
完璧な自分を目指すのではなく、お互いの弱さや背景を想像し合える、そんな温かい関係を大切にしていきたい。そう願っています。






