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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【2025年2月】今月のメッセージ「石ころ」

2025年2月1日

石ころ

なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ローマの信徒への手紙3章20節

阿倍野教会
山下壮起牧師

 

20252月、今月のメッセージを担当します、山下壮起です。現在、日本基督教団阿倍野教会で牧師をしています。

わたしは、アメリカ合衆国のジョージア州、アトランタにあるモアハウス・カレッジという大学でアフリカン・アメリカン研究という分野を専攻し、アメリカの黒人の歴史や文化を学びました。モアハウス・カレッジは、南北戦争後に奴隷制から解放された黒人男性の教育のために、1867年に建てられた大学です。そして、いまでも学生の99%は黒人で、アメリカの各地からいろいろな背景をもつ黒人の若者たちが学んでいます。

人権についてのプログラムが行われた南アフリカの大学の入り口

 わたしは同世代の黒人の若者たちと友人になりましたが、そのなかに同じアフリカン・アメリカン研究を専攻したボストン出身のアミールという友人がいます。大学3回生の夏休みに、わたしとアミールは南アフリカのダーバンという町で約1ヶ月を過ごしました。南アフリカとアメリカの大学で学ぶ学生を対象にした、人権について学ぶプログラムに参加するためです。

ダーバン空港

ダーバンの町

毎日いろんなテーマでディスカッションをするのですが、ある日のテーマは、「刑務所に入れられている人の人権は保障されるべきか?」というものでした。その議論のなかで、アメリカから参加した白人の学生が「刑が確定した囚人に人権を認める必要なんてない」と発言しました。それを聞いたアミールは、激しく怒って「なんでそんなこと言うんや!」と反論しました。それは彼のいとこや友人が刑務所に収監されていたからです。

日本だと親戚や友人が刑務所に入っているというのは、あまり身近なことではないかもしれません。でも、アメリカの黒人にとっては、とても身近な現実です。黒人はアメリカの全人口のわずか12%ですが、刑務所の人口では40%にもなっています。黒人の3人に1人が刑務所に入れられる経験をするというデータもあります。こうした状況を生み出しているのは、アメリカ社会でいまだに根強く残る人種差別です。警察が黒人に対して過剰な取り締まりを行い、ただそこにいるだけで職務質問をされ、少しでも抵抗しようものなら逮捕されてしまいます。また、同じ犯罪であっても、裁判では白人よりも黒人に重い刑が科されます。そのような構造的な差別によって、多くの黒人たちが苦しめられています。

アミールのいとこや友人も、こうしたアメリカの人種差別と刑務所システムの犠牲となって、刑務所に入れられていました。だからこそ、「囚人に人権を認める必要なんてない」という白人の学生の言葉に大きな怒りを覚えたわけです。南アフリカでの人権を学ぶプログラムでは、参加した学生の人種や育った環境によって考え方が全然違い、特に参加者の多くが白人の学生で、恵まれた環境で育ってきた人たちでした。そのため、アミールのような厳しい環境で育ってきた人の思いがなかなか理解されないことが日に日に浮き彫りになっていきました。

そのせいか、アミールもイライラがたまって、やるせない気持ちになっていたのが伝わってきました。そんなある日、一日のプログラムを終えて、近くの公園で缶ビールを飲みながら色んなことを話していると、いきなりアミールが大粒の涙を流して泣き出しました。そして、アミールは公園に落ちている石ころを指さして、こう言いました。「石ころはただそこに転がって、ただ黙ってそこにいて、他の石の悪口も言わず、他の石を支配しようともしない。何で人間は同じようにできないんだ。何で、石ころのようになれないんだ」。アミールは、思わず涙を流してしまったのを誤魔化すように、冗談めかして「これも神からの啓示かな」と言いました。ですが、アミールが涙を流しながら語ったこの言葉は、わたしにとって大切なものとして、まさに、神の啓示のようなものとして今もわたしの心に深く刻まれています。

アパルトヘイト時代に黒人の居住区と定められたエリアはタウンシップと呼ばれる。掘っ立て小屋が立ち並び、アパルトヘイトの生み出した貧困問題を生々しく伝えていた。

聖書には「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)というパウロの言葉が記されています。ユダヤ教には律法という規範がありました。しかし、規範というものはそれを守ることが求められます。それゆえに、誰か律法に違反していないか、罪を犯していないかと、人が人を裁くことが起きていました。また、律法学者のように、それを解釈する立場にある人に都合よく用いられてしまう危うさがあります。なにより、パウロ自身が律法学者として、律法の名のもとにキリスト者を暴力的に取り締まっていました。

法律も同じ危うさがあります。法律は、それを作る力を持つ人に都合よく用いられてしまいます。アメリカでは、160年前まで奴隷制は合法でした。日本では、戦前まで女性に選挙権がない状態は合法でした。白人が黒人を、男性が女性を合法的に抑えつけるためです。また、法律があるから、その違反者を探して取り締まる口実として利用されてしまいます。警察は、法の執行の名のもとに、恣意的な取り締まりを行ってきました。その結果、日本では袴田巌さんや石川一雄さんのような冤罪が繰り返し生み出され、アメリカではアミールのいとこや友人のように、多くの黒人が一方的に警察に取り締まられ、重い刑罰を受けて苦しんでいます。

これらの法律の問題や限界を前にして、わたしは涙を流したアミールが語った言葉を時折想い起こします。法という規範によって拘束され、自由が奪われるこの世界の現実に対して、アミールの言葉は希望を伝えるものだからです。石ころのようになってそのままで他者を受け止める生き方によって、誰もが自由で解放された世界を実現できるはずだという希望です。

 まだまだ、この世界では、法の支配の名のもとに、たくさんの命が不当に取り締まられています。しかし、聖書は、律法や法律のような罪の自覚しか生じないものによってではなく、ほんとうに大切なことによって生きていく生き方を伝えています。それは、どんな命も神から祝福されていると信じて生きていく生き方です。神が人間を祝福するのは、支配から自由になり、解放された者として生きていくためです。神の祝福を受けて、わたしたちが命の貴さを信じて自由に生きようとすることから、変わっていくことができます。誰もが取り締まられることのない、どんな人でも自由に自分を生きられる、そんな世界が来るようにと願っています。

阿倍野教会外観

阿倍野教会礼拝堂

 
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