「背負われ、刻まれて」
聖書箇所:「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
イザヤ書46章3〜4節
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうかたとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。」
イザヤ書49章15〜16a節
動画はこちらからYoutubeページにとびます。
大阪城北教会
東島美穂 牧師
新年最初の月のメッセージを担当いたします、大阪城北教会の東島美穂と申します。
隣りに映し出した写真は、昨年、こどもの日・花の日礼拝で当教会CSにつながる子どもたちが手作りした花を飾った際の礼拝堂です。2025年、この動画を視聴してくださったお一人おひとりのいのちと旅路が、「この花のように みんなの心に やさしくかおる」(こどもさんびか改訂版115番より)ものとなりますようお祈りしています。
年が変わっても、わたしたちが住む世界や抱く想いがすぐに、よりよく変わる訳ではありません。ずっと変えることのできないもの、きっと変えることのできるもの、をそれぞれが背負い刻みながら生きています。そうした中で、これまでもこれからもずっと変わることのないものについて、「ピエタ」を通してお伝えしたいと思います。
「ピエタ」はイタリア語で憐み・慈悲などを意味しますが、それを題材にしてミケランジェロが制作した彫刻作品のことです。ネットで検索すると、これから紹介する3つの「ピエタ」の写真がありますので、よろしければご覧ください。
一つ目に紹介する「サン・ピエトロのピエタ」は、ミケランジェロが20代の若い時に作成したものです。十字架から降ろされた若き息子イエスを母マリアが抱え、悲嘆に暮れている姿が表されています。
そのように、これまでに若くして愛する我が子を見送らねばならない、また親より先に逝かねばならない悲嘆を刻まれた方がおられると思います。
また、主イエスがそうであったように死を前にして「願わくはこの杯を取り除けてください」、と悶絶し格闘せずにいられなかった叫び祈りを背負い。この「ピエタ」に彫られているように、その時に寄り添い、愛おしく強く抱きしめながら、とめどない涙を流した人の存在があることを思います。
二つ目に紹介する「フィレンツェのピエタ」はミケランジェロが80歳頃の作品です。十字架から降ろされたばかりのイエスを抱いているのは、母マリアと病を癒してもらったマグダラのマリア。その後ろにいる男性については諸説ありますが、この作品を自分の墓碑にしようとしていたことからミケランジェロ自身では、と言われます。
親しい友人を次々と失ってゆく孤独感に加え、我が身の衰えも顕著になり、死をも意識するようになっていた頃の作品ですから、自分が十字架のイエスを見つめつつ歩んできた生涯であったことを伝えようとした、とも言われています。
そのように、これまで孤独や我が身の衰えを刻みながら、主イエスと共に歩んできた生涯を伝えてこられた方。晩年に主イエスを見つめて生きられた方。これから見つめようとしている方がおられることを憶えます。そして、それぞれの人生の傍に、その姿に触れ、見つめ続ける人たちがいたことを思います。
三つ目に紹介する「ロンダニーニのピエタ」は、ミケランジェロが召される直前まで掘っていた最後の作品です。腰が曲がり頭を上げることもままならず、視力を失いながらも手探りで掘ったと言われています。ですから、見るからに荒削りの作品となっています。
また前の二つの作品と違い、この「ピエタ」はマリアが息子イエスを抱えるのではなく、イエスが母マリアを背負っています。イザヤ書46章3〜4節のみ言葉に「あなたたちは生まれた時から負われ〜わたしはあなたたちの老いる日まで背負っていこう」とあるように、ミケランジェロは自分の90年に及ぶ生涯は、主イエスに背負われた人生であったことを最後に伝えたかったのでしょう。
そのように、皆さんの中に、隣り人に、歩くことも頭を上げることも見ることも困難で、我が身の弱りや終わりを見つめ、背負っている方もおられると思います。
「ロンダニーニのピエタ」には、「フィレンチェのピエタ」で彫られていた周りの人々が誰もいないように、その弱り終わりの時を側で見つめる者がおらず、孤独の内に過ごさねばならない方がおられることを思います。
けれども、そうした一人ひとりが生まれた時から最後の最期まで、主イエスに背負われているから決して一人ではない、ということを先のイザヤ書46章のみ言葉は示しています。
ミケランジェロはこの最後のピエタを、愛する者を亡くして悲しむマリアを主の霊が慰めている様を表現するために作った、とも言われています。これまで、様々なかたちで愛する者を亡くして嘆き悲しみ弱りくず折れる一人ひとりを、慰め主が背負われている。その故にこれからを生きていく力が与えられますように、と切に祈り願います。
イザヤ書49章15〜16a節のみ言葉に、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。」とあります。
母マリアが子イエスに抱いたピエタ(慈悲)は生涯忘れ得ぬものだったでしょう。けれども、そのような深い絆で結ばれた人たちがたとえ私を忘れるようなことがあっても。たとえ自分で自分のことさえ分からなくなり、忘れてしまうことがあっても。「造り主なるわたしがあなたを忘れることは決してない。あなたはわたしの手のひらに刻みつけられたかけがえのない存在であり、何ものもあなたをわたしの手から奪い消すことはできない!」
このずっと変わることのない、「背負われ、刻まれて」いるそれぞれのいのちと旅路が、傷を負い悲痛を刻む誰かの心にやさしくかおる花として芽吹きますように。
祈り:神さま、あなたが造られたこの世界と一人ひとりの心のすみずみにまで、いのち活かす道がゆきわたりますように。主のみ名によってお祈りいたします。アーメン。