「新しく創造された人」
聖書箇所:「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 」
コリントの信徒への手紙二 5章13-19節
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富士見町教会
藤盛勇紀 牧師
今日は皆さんと一つの事実を分かち合いたいと思っています。それは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」という事実。そして「古いものは過ぎ去り、(見よ、)新しいものが生じた」。これは新たな思いや心構えを持つといったことではありませんし、新しい生き方のことでもありません。事実、新しい人が創造された、と言うのです。
パウロはこう言います。「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」。一人の方、イエス・キリストが十字架で死なれた以上、私たちも十字架につけられて死んだのだ、と言うのです。誰でも、「今生きているけど、いずれ死ぬ」と考ていると思います。しかし聖書は、あなたはすでに死んでいる、と言います。
死んでいる? 生きてるだろ? いや、どっちだ? 自分を見たって分かりません。聖書が言うのは、「キリストと結ばれる人(キリストにある人)」のことです。問題は、「キリストはどんなお方か」です。1コリント15章で、キリストは「最後のアダム」と言われています。最初の人アダムが神に背き、その罪によって死が世に入り、死は全ての人に及んだと聖書は言います。それ以来、全ての人間は「生きて、死ぬ」定めにあります。全ての人間にとって、確かに言えることはただ一つ、死ぬことだけ。これはもう、自然法則のようなものですが、聖書は「罪と死の法則」と言います。神と断絶して、死ぬ。この法則、誰も逃れられません。だから、パウロも嘆きました。「死に定められたこの体から、誰が私を救いえようか!」(ローマ7章)。残念ながら、救いようがありません。死ぬほかありません。
しかし、キリストはご自身が死ぬことによって、そのアダム以来の人間の運命に決着を付けたのです。「最後のアダム」として、それをオシマイになさった。だから、イエス様が十字架で死んだ時、私も皆さんも死んだのです。パウロは言います。「その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために(によって)生きること」だと。
私たちは、キリストと共に十字架につけられて死んだのです。「生きて死ぬ、古い私」は、すでに十字架に付けられて処理済み、オシマイにされました。しかし、今、生きておられるイエスに結ばれています。私たちは「新しく造られた人」「新しい私」です。アダム以来の最初の人とは違う新しい人。だからキリストは「最後のアダム」と言われると同時に、「第二の人」とも言われるわけです。だから私たちも、「第二の人」。私たちは、この恵みの事実を知るべきなのです。「あなたはすでに、死んでいる」。そして、「あなたは、新しく造られた!」。この「新しく創造された人」が、本当のあなたです。
それでも、皆さん思うでしょう。「でも、私は罪を犯すし、善を行おうと思っても、悪いことをしてしまうし…、どうする?」。パウロも同じことを言ってます。しかし彼はこう言うんです。自分が望まない悪を行う、それは「もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのだ」と。私たちはこの古い体を引っさげたまま生きています。この体に住んでいる罪が、「古い私」の「肉」を誘って、悪さをします。それで、魂がうずくんです。しかし、それをするのは、「もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」。
私たちの魂(精神)は、肉体と切り離せません。「魂」と言っても、その活動は神経細胞のネットワークにあります。ここに「古い私」の記憶が焼き付けられています。古い生き方、考え方、感じ方、嬉しい記憶も、忌々しい記憶も、書き込まれています。罪によって、そこがうずく。だから、「すでに死んだ」と言われても、なんだか実感がない。しかし、そんな実感はどうでもいいんです。それは、滅ぶべき「肉」の感覚ですから。
しかし、魂はRead Only Memory ではありません。書き換え可能です。私たちの内なるキリストの霊が、私たちの魂を書き換えてくださっています。だから聖書は、「私たちはキリストの思いを抱いています」(1コリント2:16)と言いますし、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)とも勧めるのです。
私たちの内の古い記憶がうずいて、不安や葛藤に悩みます。そこを、悪魔が足掛かりにして、責めてきます。「それでもあなたは、古い自分に死んで、新しくされた者だと言えるんですか?」と。そんな声を聞くと、良心のとがめを感じたりします。しかしそれは、悪魔のささやきです。そんな時、「ああ、確かに私は何も変わっていない罪人だ」と、自分の内に沈んで、自分の内側を探ったらダメです。
聖書は何と言っているか。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマ8:1)。
私たちは「罪と死の法則」から「命の霊の法則」へと解放されています。つまり、死の法則から、命の霊の法則への「乗り換え」をさせられたのです。だから、こっちに乗ればいいんです。それを聖書は、「霊に従う」って言うんです。
ところが、マジメなクリスチャンほど、頑張って、自分で「古い私」を叩いて、何とか改善して、命に至ろうと努力します。それは無駄です。自分の魂を自分で何とかしようとするその努力は、「霊」ではなく「肉」の業ですから。
私たちはしばしば、内なる葛藤を経験します。「神との関係が壊れたんじゃないか」と恐れます。しかし「恐れるな」。イエスは死なれたんですから。イエスに結ばれた私たちには、もう神の怒りさえ残っていません。それが「恵み」の事実です。この恵みの中を歩んでいるなら、私たちが経験すること、為すことのすねては、恵みの具体化、現実化になります。この死ぬべきポンコツの体に、イエスの命が現されるためだ、と聖書は言っています(2コリント4:7~12)。
私たちは土の器、破れ提灯みたいなものです。だからこそ、盛られた恵みはこぼれ出ます。「このボロい私の内に生きておられるキリストを見よ」と言えます。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」なんですから。