インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【2024年4月】今月のメッセージ「一緒にいる」

2024年4月1日

「一緒にいる」

書箇所:「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
ルカによる福音書26章32~43節
※動画はこちらから

鳳教会
三浦 遙 牧師

 

 皆さんこんにちは。
 大阪府堺市にあります、鳳教会の三浦です。先日の日曜日、わたし達キリスト教会はイースターを迎えました。主の復活という喜びの出来事を思い起こしつつ、2023年度を終え、この4月から新しい年度に入りました。4月というと、始まりの季節。子ども達も成長していく中での変化や進級したり、学校や大学などへ進学したり、また大人達もそれぞれに環境が変わることもあるかもしれません。中には、これまでとは全く違う環境へ行き、家族や友人達と離れて過ごされる方もおられるでしょう。そのことで不安を感じる人もおられると思います。新しい環境で、何より一人でどうやっていくか。また新しい人間関係が上手くいくだろうかと。しかしここ数年の歩みを思い起こすと、人と人との関わり方にも変化が起こっているように感じる時があります。それは、新型コロナウイルスの影響による密を避ける様な関わりももちろんですが、オンラインでの様々な取り組みが進み、画面越しの交流も増えつつある中、人の関わりのあり様も変わってきたのかもしれません。かといって、一緒にいるという事は、ただ隣にいるという事を指すものではないのだと思わされます。例えば、電車で偶然 隣になった人のことを「一緒にいる」とは言いません。互いが互いを認識し、なおかつ同じ想いを共有している時だけが、「一緒にいる」という事なのかもしれません。
 先ほど共にお読みした聖書の箇所においても、「わたしと一緒にいる」という言葉が記されていました。新約聖書ルカによる福音書23章の32-43節。イエス・キリストの物語の中でイエスが十字架に掛けられた時の様子を描いたものです。
 キリスト教をあまり知らない方でも、キリスト教のシンボルが十字架であるというのはよくご存じかと思います。どの教会においても十字架は必ずといっていいほど掲げられています。しかし、その十字架がどのようなものであるかまでは、あまり知られていないのかもしれません。今回の箇所の冒頭、33節には「されこうべ」というところで、イエスが十字架につけられたと記されていました。加えて、イエスだけでなくもう二人の犯罪人も同様に十字架につけられたとあります。この十字架は刑罰、いわゆる死刑の道具であり、イエスと、もう二人の犯罪人の3人が十字架につけられたのでした。イエス以外にも十字架に掛けられた人がいたというのも、驚かれるかもしれません。またちなみになんですが、この十字架刑は数ある死刑の中でも残酷な刑罰であったと言われます。この十字架刑の死因は衰弱死というよりも窒息死だったそうです。ひじが肩より上に持ち上げられると呼吸がしにくくなりまして、体力が限界を迎えると呼吸が出来なくなり、最後には窒息してしまうのだとか。イエスも十字架上で3時間という長い時間苦しまれた後、息を引き取ったというのが聖書に記されています。この時のイエスは、神の子であると嘘を付いたこと、自称神の子として人々を騙し、扇動した罪で十字架に掛けられたのでした。その事で、当時の権力者たちはイエスをあざ笑います。「本当に神の子なら、神に頼んで助けてもらえ」と嫌味を言い、同じく兵士たちもイエスをあざ笑っていました。すると、イエスと共に十字架に掛けられていた犯罪人の一人も「お前がメシア、救い主なら、自分とわたし達を救って見せろ」イエスをののしり始めます。このように、イエスは、十字架に掛けられた苦しみだけでなく、周囲の人々からの罵声を浴び、孤独という苦しみをも与えられていくのです。
 しかし、40節にはイエスをののしった犯罪人を窘めるように、もう一人の犯罪人が声を発します。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は、何も悪いことはしていない。」と、この人物は、十字架刑を受け入れつつ、イエスの苦しみに寄り添うのでした。そして「イエスよ、あなたの御国においでになるとき、わたしを思い出してください。」といいます。この言葉にイエスは、「はっきり言っておく、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」と応えています。この言葉を聞くとき、遠くから見守っていた女性達もいましたが、されこうべにいたイエスと二人の犯罪人、そして兵士や権力者たちの中で、本当の意味でイエスと共にいたのは、何よりイエスに寄り添った犯罪人だけであったのだと思わされます。
 冒頭でお話しした様に、たとえ同じ場所にいても、想いを分かち合っていなければ、互いに想い合っていなければ一緒にいるとは言えない。それは言い換えれば、たとえ遠く離れている人であっても、目に見えないところにいる人とでも、想いを分かち合い、互いに想い合っていれば、一緒にいると言えるのかもしれません。新型コロナウイルスの影響により、家族や友人達となかなか会うことが難しい日々が続いたこの数年。そしてこの4月からそれぞれの場に出向き、家族と離れ離れになるとき。遠く離れている時間は多いかもしれませんしその中で孤独を感じ、辛い思いを抱く時があるかもしれませんが、それでも、互いを想い合うときに、わたし達は家族や友人たちと一緒にいることが出来る。また、11日、元旦には能登半島での震災がありました。これまでの多くの自然災害を通して本当に多くの死傷者が出、その傷は多くの人の心に今もなお深く刻まれています。新型コロナウイルスによって亡くなられた方も多くおられたここ数年も含めて、愛する家族や友人を失った悲しみは深いものですが、亡くなられた方々が、天の国で地上の家族や友人たちを常に想い、見守ってくれていると信じられれば、地上のわたし達がその方々を思い起こすとき、言い換えれば互いを強く想い合うときに、たとえ目に見えなくとも、亡くなられた家族や友人たちとわたし達は一緒にいることが出来るのだと思うのです。
 聖書に描かれるイエス・キリストや神様は、目に見えないし会うこともかなわない存在に思われるかもしれませんが、聖書にはそのイエスや神様がわたし達一人一人を愛し、常に思ってくださっていると伝えています。ならば、地上のわたし達がイエスを想い、神様を思い起こすとき、イエスや神様はわたし達と一緒にいてくださるのです。まだまだ不安の多い歩みの中にいるわたし達ですが、たとえ遠くにいても、目に見えなくとも、わたし達は、わたし達キリスト教会は互いを想い、愛し合うことによっていつも一緒にいる。だから安心していきなさいと語り掛ける聖書の言葉と共に、これからも不安や恐れだけでなく、喜びと希望を胸に、笑顔で一緒に歩むことが出来ればと願います。何よりこれから新しい歩みを始められる一人ひとりの道が、主の愛によって支えられ、守られますように。

 

 
今月のメッセージ
PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2024
The United Church of Christ in Japan