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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【2024年3月】今月のメッセージ「中心を見つめて」

2024年3月1日

「中心を見つめて」

書箇所:「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」
ルカによる福音書12章22~31節
※動画はこちらから

広島古市教会
庄司 翼 牧師

 

 3月のメッセージを担当させていただきます。広島古市教会の庄司です。
 2024年が始まりましたが、1月には能登半島地震の発生、また、それ以前から続くガザを標的としたイスラエルの攻撃、終わらないウクライナとロシアの争いなど、また、社会問題としても、貧富の格差の拡大、都市部と地方の問題、など枚挙に暇がないほどです。いろいろなことを取り上げようとすれば取り上げきれないほどに解決せねばならない問題がわたし達の生きる世界を取り巻いています。
 これらは負の遺産として、築かれてきた歴史の中で降り積もり、積み重なってきたものでもあります。
 では、どうしてそのようなものが積み重なり続けてきてしまうのか、そこには自己の利益を追い求めることに対しての無条件な信頼が存在してしまっていることがとても小さな一因として考えられます。自分にとってより良い社会にしたい、他者よりももっと良い生活がしたい、もっと便利な物が欲しい、これらの欲求が何も犠牲にすることなく叶えば、おそらく問題視する人は少ないでしょうが、これらの願いが誰かの犠牲によって成り立っているのが今という世界であり、イエスの生きた時代と何ら変わらない世界でもあるのです。
 マタイによる福音書20章に記されている「『ぶどう園の労働者』のたとえ」は、イエス自身が語った一つの理想郷的情景です。ぶどう畑の主人が日に何回も訪れてくれる、その都度労働者を雇ってくれる、しかも、丸一日分の賃金まで支払ってくれる。こんな気前の良さがあればよいのに、と。しかし、現実はそうではなく、健康で良い働きが出来そうな人だけが雇われ、日に何度も訪れることはなく、雇われない人は広場で立ち尽くすしかない。さらにノルマに満たなければ最初の約束通りの賃金を支払われるかどうかもわからない。誰かを押しのけてようやく生存することが出来る世界だと残酷に見せつけられるのです。
 わたし達が接地している感覚では、例えば、企業同士が協力し合うのは、それによって相互利益が生まれるからであり、ライバル企業同士は利益を得るために様々な策を弄しますし、契約関係とは言っても力関係によっては一方的な要求をのまざるを得ない構造が生まれます。また、銀行が企業に融資をするのは、融資によって利益が生まれ、その利益によって銀行はさらに融資を行うという構造を展開しています。そして、利益を生むための構造は、システムやサービス、商品にのみ展開されるのではなく、人の領域にまで辿り着いてしまいました。いまや個人という存在は市場価値が付けられ、よりよい利益を得るための道具になりはててしまっています。
 これらの利益を生む構造が徹底的に黙殺や上書きすることによって考えさせないようにしているのが、命とは何か、生きているということは何かという問いです。現代において、この問いにどれほどの人が向き合えているのかは、それぞれの方が自身の中や人との関わりの中で改めて考察してもらえばと思いますが、答えづらい、あるいは、この手の問題は共有しづらいと思われる方の方が多数ではないかと思います。
 そして、答えづらさ、共有しづらさにはそんな問題は青臭いと感じてしまうことや、考えてこなかった問題であること、深める暇がなかったことも要因としてあります。
 青臭いと断じ、それよりもと全く違う話題へのすり替え、それを考える余裕がないほどにやらなければならないことに埋め尽くされる日々、残るのは空っぽになった自分だけ。そのような話がどれだけわたし達の生きている世界に満ちあふれているかを見つめなければなりません。
 命について、イエスはルカによる福音書12章、マタイによる福音書6章において一つの視座を与えてくれます。それは、自分たちの命は祝福に満ちているというものです。自分たちの命がどれほどの愛と恵みが注がれているのかを示し、その愛に身を委ね、愛の中を歩むことが示されます。
 ここには、愛と恵みが注がれ、わたしは生かされているということでもありますが、それと同時に自分以外の存在も同様に愛と恵みが注がれているということにも気付かされます。
 わたし達が示され、求められているのは、誰かを押しのけて自分のためだけに生き、それによって禍根を残しつづけるような歩みではなく、互いが互いの命を愛されたものだと理解しあえる歩みではないでしょうか。

広島古市教会

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