「詩編を祈る」
聖書個所
いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ 主に申し上げよ 「わたしの避けどころ、砦 わたしの神、依り頼む方」と。 あなたは主を避けどころとし いと高き神を宿るところとした。 91編1~2,9節
【ダビデの詩。】 主よ、あなたを呼び求めます。 わたしの岩よ わたしに対して沈黙しないでください。 あなたが黙しておられるなら わたしは墓に下る者とされてしまいます。 28編1節
わたしの魂は苦難を味わい尽くし 命は陰府にのぞんでいます。 穴に下る者のうちに数えられ 力を失った者とされ 汚れた者と見なされ 死人のうちに放たれて 墓に横たわる者となりました。 あなたはこのような者に心を留められません。 彼らは御手から切り離されています。 あなたは地の底の穴にわたしを置かれます 影に閉ざされた所、暗闇の地に。 88編4~7節
瞳のようにわたしを守り あなたの翼の陰に隠してください。 17編8節
神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。 心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。 高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。 あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。 61編2~5章
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桜美林大学教員・チャプレン
ジェフリー・メンセンディーク宣教師
こんにちは。ここは東京都町田市にあります桜美林学園です。私はここで教員として、そしてチャプレンとして働いているメンセンディークと申します。私にはもう一つの肩書がありまして、米国合同教会派遣の宣教師として長年日本で働いてきました。最近は世界で自然災害が頻発しています。愛する人を亡くし、家・道路・インフラが壊れると私たちは居場所を失って途方に暮れます。物理的な居場所が崩れると精神的な居場所もぐらつきます。今日は「居場所」というキーワードを通して昔の詩人たちが残してくれた詩編の言葉を見て行きます。
アブラハムとその妻サラは生まれ故郷を後にして神様が示す地を求めて旅にでました。思えば聖書の登場人物は絶えず居場所探しをしています。アブラハムたちの信仰も、新たな居場所を求める処から始まりました。そう考えると居場所探しとは人間の永遠のテーマなのかも知れません。
詩編には居場所を表す比喩がいくつもありますが、今日は二つだけ取り上げます。居場所を失った比喩としての「穴・墓穴」、そして居場所を得た比喩として「翼のかげ」です。比喩というのははっきりとしたイメージを与えますが、特定の時と場所を指しません。詩人は読み手の想像力をかき立て、自由な発想で自分の現実に置き換えて考えられるように、比喩という表現方法を用いています。では、具体例を見て行きましょう。
まず詩編28編1節(p.858)をご覧ください。
「墓に下る者」とありますが、これは神様に見放された人の心境をうたっています。「墓穴」とは、命から遮断され、無効にされ、沈黙させられ、忘れ去られるところです。創世記にはヨセフと言う男が兄弟たちに嫌われて穴に投げ込まれる場面があります。穴とは、死んだも同然とされる場所です。
もう一か所、今度は詩編88:4-7(p.925)です。
ここで伝わってくるのは無力感です。そして「暗闇」という言葉があります。穴に投げ込まれた人は心の闇(うつ症状)を経験します。穴に投げ込まれる経験は神様を信じたからと言って免れるものではありません。でも、そこは本来の人間の居場所ではありません。詩編30:10で詩人は抗って言います。「私が死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたのまことを告げ知らせるでしょうか?」私たちの命の目的は主をたたえることです。詩人は自分が「穴」にいるべきではないと知っています。
詩編は祈りの言葉です。詩編を祈る人は穴に落ちる経験から再び居場所を得る恵みへと導かれます。居場所を得る時の比喩として登場するのが「翼のかげ」です。「翼のかげ」とは安全と安心、優しさ、養う者の存在を表します。親鳥がヒナを養うように、自分よりも大きな存在が自分をそっと大切に守ってくれます。
二つの詩編を見てゆきます。まず、詩編17:8(p.846)をご覧ください。また、続けて詩編61:2-5(p.894)をご覧ください。
詩人の目には自分を養ってくださる神様の姿があります。宗教に属していない人はここで批判するかも知れません。「結局宗教を信じる人は神様に依存している。宗教は弱い人のためにあるのだ」と。しかし、見方を変えればこれはキリスト教やユダヤ教の現実主義です。しょせん人間は自分が思っているほど強くも賢くもない。人間は神様に守られ支えられる存在である。この考え方の方がより現実的ではないかと思いませんか?
最後にお読みしたいのは詩編91:1-2,9(p.930)の言葉です。
詩編を祈る人は今穴の中にいるのかも知れません。無力感と戦い、居場所を失い、方向感覚を失っているのかも知れません。これは恥ずかしいことでも、悪いことでもありません。私たちが人生の中で必ず経験する試練の時です。詩編を祈る人は、91編にもあるように、「いと高き神のもとに身を寄せてかくれ、全能の神のかげに宿る人」です。これは未来の希望を言っているのではなく、その祈りは今のこととして言っているのです。祈る人は、祈ることを通して、「穴」から「翼のかげ」に移るのです。それこそ、無力な場所から安全な場所に、死から命へと移るのです。祈ることは希望の証です。新しい命に向かう信仰の証です。私たちはこのように詩編を祈ることで神様が私たちの内に生きて働いて、私たちを新たにしてくださる、「穴」から「翼のかげ」に贖いとって下さることを祈っているのです。
皆さんは今までの人生でどのような「穴」を経験されてきたでしょうか?2024年2月です。能登地方の方々、ガザの方々。深い穴の中から祈り求めるすべての方に神様のみ守りと祝福をお祈りいたしましょう。