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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【9月】今月のメッセージ「「関所」で新しい「われわれ」を紡ぐ」

2022年9月1日

「関所」で新しい「われわれ」を紡ぐ

聖書個所:エフライム人が勢ぞろいして、ツァフォンに赴き、エフタに言った。「アンモン人との戦いに出向いたとき、なぜあなたは、わたしたちに同行を呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも焼き払ってやる。」 エフタは彼らに言った。「わたしとわたしの民がアンモン人と激しく争っていたとき、あなたたちに助けを求めたが、敵の手からわたしを救ってくれなかった。 あなたたちが救ってくれることはないと思い、わたしは命がけでアンモン人に向かって行った。主は、わたしの手に彼らを渡してくださった。どうして今日になってわたしに向かって攻め上り、戦おうとするのか。」 エフタはそこでギレアドの人をすべて集めて、エフライムと戦い、ギレアドの人はエフライムを撃ち破った。エフライムが、「あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ」と言ったからである。 ギレアドはまた、エフライムへのヨルダンの渡し場を手中に収めた。エフライムを逃げ出した者が、「渡らせてほしい」と言って来ると、ギレアド人は、「あなたはエフライム人か」と尋ね、「そうではない」と答えると、 「ではシイボレトと言ってみよ」と言い、その人が正しく発音できず、「シボレト」と言うと、直ちに捕らえ、そのヨルダンの渡し場で亡き者にした。そのときエフライム人4万2000人が倒された
士師記12章1-6節

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在日大韓基督教会 横須賀教会
牧師 金迅野

 

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 士師記12章1-6節は、エフライムと、ギレアドの2部族間の抗争について描かれた箇所です。背景には、イスラエル全体についての主導権をめぐるエフライムとマナセの部族間の確執がありました。現在の「高み」からは愚かな(いさか)いと感じられるかもしれませんが、1つの小さな島をめぐって複数の国民国家が躍起になって争っている姿を見るにつけ、「高み」で批評ができるほど私たちの社会が成熟していると言えるのかどうか、はなはだ疑問に感じられます。
 抗争の結果、ギレアドが勝利することになります。「あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ」。自分より小さくて取るに足らない亜流と思っていたギレアドに負けたエフライムの捨て台詞のような言葉です。聖書は、「被害者」を無条件に「義」としませんでした。人間が「義」からどのように遠ざかり愚かさに身を浸してしまうのか、そのことをまず汲み取る必要があると私は思います。
 私たちは、主流/傍流、〇〇人/△△人、男/女、大人/こども……などさまざまな線引きの中で生活していますが、そのことについて深く考えるいとまもなく社会的な時間を駆け抜けていきます。しかし、ときに今日の聖書の箇所のように、「愚か」としか言いようのない事柄によって抜き差しならない状態が迫ってくることがあるようです。そのとき、私たちは問われることになります。「あなたはどちらに属しているのか?」と。

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 戦闘の結果、ヨルダン川の渡し場はギレアドに制圧されたようです。人びとがヨルダン川を越える理由は定かではありませんが、ギレアドから故郷に逃げ帰ってくる者が少なからずあったと思われます。あるいは政情が不安定になって混乱したエフライムから逃げ出そうとする者もあったのかもしれません。通常、渡しは、川によって寸断された領域をつなぐ役割を持ちます。しかし、その境界の領有そのものが争われるようになると、そこは「つなぐ」場所から「選別」する場所に変わります。すなわち、そこを通る人間は、次のような「問い」をくぐりぬける試練を与えられます。「あなたは『われわれ』なのか?」
 ギレアド人は渡しの検問で人々に聞きます。「あなたはエフライム人か」と。「そうではない」と答えた者にテストが課されました。「それならばシイボレトと言ってみよ」。エフライム人は発音の習性から「シボレト」と言わず「シボレト」と言ってしまう。その微細な「言い間違い」によって、エフライム人と識別された人々は、その場で「亡き者に」され、4万2000人が「倒された」と言います。「シボレト」の原義は「川の流れ」です。しかし、発音の微細な差違が、言葉が本来持つ意味内容からずらされて、人の生死を決定付け、暴力を行使するための選別の記号と化したことの消息を聖書は伝えています。日本語の聖書は、「亡き者にした」と柔らかい表現を使っていますが、本来は「虐殺した」という意味ですし、「倒された」という箇所も「暴力によって殺された」と訳すことができます。

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 99年前の1923年9月1日、この地でも1つの言葉が生死を選別する記号に変貌しました。ご存知の「15円50銭」という言葉です。首都圏で地震が起きた日の夕方から「朝鮮人が井戸に毒をまいている」「殺人、放火、暴動を行なっている」というデマが流されはじめました。戒厳令が敷かれ多くの朝鮮人が「ちゅうこえん、こじゅっせん」と発音したために軍隊や自警団によって各地で「倒され」ました。朝鮮人の犠牲者数は司法省の調査書では230人あまりとされましたが、吉野作造らの調査では2,613人、朝鮮人基督教青年たちの独自の調査では犠牲者は6,000人を超えたと記録されています。
 ところで、神奈川県には大川常吉さんという警察署長の有名な伝承が残っています。デマに煽動された群衆を前にして、大川さんは「毒をまいたというのならその水を私が飲んでみせよう」と言って実際に水を飲み、群衆を鎮めたと言われています。そのことに感謝の意を表するために朝鮮人たちが立てた碑がある寺院にいまも残っています。私がいま考えたいのは、もしそのとき自分がその場所にいたらどのような位置取りをするだろうかと、自分に問うてみることの大切さです。コリアンであれ、日本人であれ、その場に自分がいたとしたらどのように事態を受け止めたであろうか。そのことを誰に表明するでもなく宣言するのでもなく、自分に問うことへの志向こそが、今日の聖書の箇所を現在の「高み」から外在的に語らないことの条件だと考えます。そして、「あなたはわれわれですか?」という問いから離れることが大事だと思うのです。

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 自由を求めて亡命を企図したエフライム人が「関所」で生死のふるいにかけられたように、現代社会のなかに、「関所」が設けられることはないでしょうか。人種によってPCR検査を受けられる比率が違うということが示すものはなんでしょうか。「障碍がある者は人を不幸にする」という考えを生んでしまったこの社会に「関所」はないと言えるでしょうか。「死ね、殺せ、消えろ……」などの言葉が中空に舞う社会は、「表現の自由」という名で、目に見えない「関所」を作り出すことに最も長けた社会になっているのではないでしょうか。

 イエスが崩し、脱臼させようとした「隔ての壁」(エフェソ2・14-16)は、いまも、そのように至るところにつくられてあるのだとしたら、私たちはイエスにならって、古い「われわれ」によって「関所」になってしまったところを、人と人が繋がりなおす新しい場所にしなければなりません。最も残酷に人と人を分かつグロテスクな「関所」にこそ、人と人が改めて繋がりあえる「希望」が宿りはじめるのだということ。そのことを、この9月、改めて胸に刻みたいと思います。痛みをかかえる誰かの傍らにいる、痛みを通して誰かと連なることを求める、新しい「われわれ」を夢見つつ。

 

 

 
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