「信仰の決断」
聖書個所:「主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」
ヨシュア記3章17節
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ケルン・ボン日本語キリスト教会
牧師 佐々木良子
私はドイツの西部に位置するケルン・ボン日本語キリスト教会の牧師の佐々木良子と申します。2016年から遣わされ、現在6年目を迎えております。海外の教会にお仕えしている、というと語学が堪能であるとか、留学の経験がある、と思われるかもしれませんが、全くどちらもあてはまりません。唯、神様の御声に従ってケルンにやって参りました。
しかし、言語も文化も違うドイツの国に遣わされるのですから、大きな決断が必要でした。そのポイントとなったことは、これまでの私の信仰生活を通して、神様が全てを導いてくださり、その道は必ず祝福してくださるという確信からくるものでした。更に、ケルンでの新しい道を神様がどのように導いてくださるのか、という期待をもってやって参りました。
本日は、「決断」というテーマで聖書からお聴きして参りたいと思います。私たちの人生は、日常の小さな決断から、人生を大きく分ける重要な決断、様々な場面での決断がいつも迫られているのではないでしょうか。
決断に至る大切なポイントは、未知の世界を自分の力や知識で切り拓いてゆくのではなく、神様が既に用意してくださっている道を神様と共に歩むということです。所謂、「信仰の決断」といえます。そこで信仰の決断とは、具体的にどのようなことか、旧約聖書のヨシュア記から見て参ります。
ヨルダン川を渡れ
ヨシュア記1、3章には、神様がイスラエルの指導者であるヨシュアという人物に、イスラエルの全ての民と共にヨルダン川を渡りなさい、という命令が記されています。ヨルダン川を渡ると、乳と密の流れる豊かな土地であるカナンに到着するために、神様は命じられました。
けれども目の前にあるヨルダン川の状況について、このように記されています。「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが・・・」(3章15節)。この時期は雪解け水と雨季の増水の為に、川幅が1600メートルにもなると言われています。所謂、厳しい状況です。とても渡れるような状態ではありません。しかし、神様はヨルダン川を渡りなさい、というとてつもない命令でした。
しかし、注目すべきことが続いて記されています。「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、 川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。 主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」(3章17節)
ヨルダン川の水は一見すると、ヨシュアとイスラエルの民にとっては、行く手を阻む大きな試練でした。にも拘らず、神の箱を担ぐ祭司達がその水の中に入った時、祭司たちの足元から水が壁のように立った、と記されています。
試練の中への一歩
ここから私たちは学びたいと思います。試練を眺めているだけでは、恐ろしいものでしかありません。目を向けたいことは、祭司が水に足をつけている間、川の水が壁のように立って、民全体が約束の地へ安全に渡ったと記されています。
ヨルダン川は私たちにとって、目の前に置かれている大きなハードルだと言えます。しかし、信仰の決断をした時、水の中に入った時、その一歩を踏み出した時、神様が働いてくださり、渡れるように助けてくださっているのです。
このように流れがせき止められている時、ある意味で神様が私たちに与えてくださった執行猶予の時間でもあるといえます。この時間は一番ゆっくりしている人でも、子どもでも、お年寄りでも、弱い人でも全員渡ることができたと記されています。強い人たちだけが渡れるのではありません。子どもから弱さを抱えている人から、全ての人が渡れるように神様はそこで守り導いてくださっているのです。
私たちはこのヨルダン川のような試練の水は、できれば避けたいと思うものです。しかし人生には色々な問題、試練、苦しみ、悩み等が襲ってきます。それを眺めているだけでは恐ろしく、前に進むことができません。
しかし、ここに記されているヨシュアのように、祭司たちのように、試練の中に一歩足を踏み入れた時、神様の御業が行われ、私たちは見て経験することができます。私たちに与えられているヨルダン川は何でしょうか。信仰をもって神様と共に一歩前に進んでゆく者でありたいです。神様に向かっての決断を私たちが為してゆくことができたら、このような幸いはありません。そのような信仰の決断が与えられますようにと、祈って参りたいと思います。