「共にいる神」
聖書個所:「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
マタイによる福音28章20b節
日本聖書神学校教務部長・番町教会
牧師 柳下明子
別れは悲しみをもたらすものです。けれども、別れを経験するこのような時に、わたしたちが不安や恐れに駆られることは、ただただ避けるべきことというわけではありません。実はそのような思いを抱くことは、わたしたちがより深く、生きることを愛するために大切なことでもあります。
春を迎える季節に美しい花を咲かせる水仙やクロッカスなど、春咲きの球根の植物は、冬にある程度の寒さを経験しないと花を咲かせないといいます。秋に球根を地面に植えると寒さが厳しくなる前に根を張り、冬の厳しい寒さを経験して、根が強くなります。やがて暖かくなり、凍った地面が溶ける頃に球根は芽をだし、葉を伸ばし、やがて花を開かせます。春咲きの球根は、秋に植え付けて冬の寒さを経験することが、丈夫で美しい花を咲かせるために必要な条件です。このような球根の植え付け時期が遅れてしまい、植え付けが真冬を過ぎてしまうことがあります。植えられた球根は地面の中で十分な寒さにさらされず、春になっても開花しなくなってしまうのです。そんな場合には、植える前の球根をわざわざ冷蔵庫に入れ、寒さを経験させる、低温処理という方法をとることもあるそうです。厳しい寒さを味わうからこそ、強い根を張り、美しい花を咲かせる。
このような球根の育ち方のように、キリスト教の暦では、春の前の寒さはとても大切です。今、わたしたちが過ごしている3月は、キリスト教の暦では厳しい寒さが募ってゆく時ともいうことができます。やがて4月にはイースター、イエスの復活がやってくることが約束されてはいるけれど、今は、そのまえの別れに備える季節、それがイースターの前の時、イエスの受難を覚える季節だからです。
イエスは、裏切られ、信頼していたものたちからも見捨てられて、たった一人で孤独の内におかれ、十字架にかけられていのちを落とします。人としての尊厳を奪われ、苦しみを味わい、いのちを落とします。その痛みにみちた十字架の死を通して、神はそれでもそれが悲しみと失敗に終わらない世界を見せてくれます。人間にとって惨めな結末にように見えるもの、痛みと悲しみしかもたらさないように感じられるものを、神はひっくり返す。絶望は希望へと変えられる。それが復活です。失敗と悲しみを味わうからこそ、人は復活を信じることができます。厳しい寒さの中で、身を縮めてただただやり過ごさなければならない時間を通り抜けるからこそ、その向こうに希望を見出すことができるのです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」この言葉は、復活したイエスが、弟子たちに与えた言葉です。大切な導き手であったイエスを大きな困難の中に置き去りにし、見捨てて逃げ出した弟子たちは、イエスの死後、自分の中に何も良いものは見出せなかった人たちです。自分は裏切りものであり、嘘と弱さにまみれたものだ、と絶望と不信の中に生きる時間を過ごしていた人たちです。
そんな弟子たちに与えられる約束が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」復活したイエスから与えられる約束は、そのつながりを失う前に持っていたものよりも長く続く、永遠の約束です。
凍てつく悲しみに閉ざされた心に与えられる復活者イエスの約束は、悲しみを乗り越えさせ、人を暖め、赦し、生かします。厳しい寒さを経験して、復活のいのちを受け取ったものは自分のいのちの歩みをより確かなものとして受け止めなおすことができるでしょう。
わたしたちもまたこの同じ約束を人生に受け取った者として、春を迎える季節に、わたしたちの人生にいつも共にいていくださる復活のイエスを待ち望み歩みたいと思います。