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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

もっと、もっと
――現実を変えていくための貪欲さを肯定する――

2025年11月1日

15ヒルに二人の娘たち〔がいる〕。
もっと、もっと〔と求める〕。
満足しないのは三人〔の娘たち〕。
もう十分と言わないのは四人〔の娘たち〕。
(箴言30章15節a[私訳])

 

 冒頭に引用した箴言30章15節aは「数え歌集」(箴言30章15−33節)の冒頭を飾るテクストです。このテクストは「貪欲」を戒めており、血を吸う「ヒル」と「娘」(女性)が二重に「貪欲」の隠喩(メタファー)として描かれています。ここには古代世界と現代世界に通底する女性嫌悪・女性蔑視(ミソジニー)がダダ漏れになっています。
 冒頭で「ヒル」と訳したヘブライ語のעֲלוּקָה(アルーカー)は旧約聖書(ヘブライ語聖書)ではここにしか用いられておらず、その意味は不明とされます。岩波訳(勝村弘也訳)はアラビア語から類推して「情欲」と翻訳していますが、日本で最も流通してきた聖書(文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳2017、協会共同訳)では「蛭」と訳されています。岩波訳(勝村訳)も、そしてヘブライ語辞書や注解書も、通説としては「ヒル」の意だと説明しています。また、「ヒル」を比喩的に捉えて、「吸血鬼のような悪霊」がイメージされているとの説やその吸血鬼の名前ないし箴言と関係する賢者の名前だとの説もあります。
 新約聖書のギリシャ語を専門とする者としては、不案内なヘブライ語の探究は諦めて、古代にヘブライ語から訳されたギリシャ語七十人訳聖書のβδέλλα(ブデッラ)に従い、通説通りに「ヒル」と訳しました。また、4世紀のラテン語訳聖書のウルガータでも「ヒル」を意味するsanguisugaと訳されています。
 このヒルの種類ですが、パレスティナを含む中東に広く生息する「馬ヒル」(haemopsis sanguisuga)だと推定されます。体躯が10〜15cmという巨大な――という表現が合っているかは分かりませんが――ヒルです。なお、ストラボン(前64/63年〜後24年頃)『地理誌』17:3:4にβδέλλα(ブデッラ)が登場するのですが、そこでは「八目鰻」の意味で使われていますので、その大きさから類推すると、やはり「馬ヒル」という推定が当たっているように思えます。そして、馬ヒルに限らず、ヒルには体の前後の両端にひとつずつ吸盤がありますので、「ヒルに二人の娘たち〔がいる〕」というのは、ヒルが二つの吸盤で張りつき、それらの吸盤内にある口器で皮膚に傷をつけて血を吸い出す姿をイメージしているようです(七十人訳聖書では「三人の娘たち」になっています)。
 それに続く「もっと、もっと」ですが、この表現は直訳すると「与えろ、与えろ」となります。原文のヘブライ語はהַב הַב(ハブ・ハブ)ですが、同じ命令法の動詞が繰り返されています。岩波訳(勝村訳)は両語を一語と見て、アラビア語やエチオピア語から推定し、直前の「二人の娘たち」を主語に解し、「二人の娘が愛欲に燃え上がる」と訳出しています。わたしにはアラビア語やエチオピア語の知識はありませんし、肝心の七十人訳では「ヒルに三人の愛に愛されていた娘たちがいた」――「ヒルに三人の最愛の娘がいた」の意か?――という意味不鮮明の文章になっていることもあり、通常の解釈に従って、「もっと、もっと」と訳しました。
 この表現はヒルが貪欲に血を吸う姿を喩えたものです。ヘブライ語の表現からすると、同じ語を重ねるのは強調でもありますから、「もっと、もっとと求め続ける」や「もっと、もっとと際限なく求める」といったニュアンスでしょうか。ちなみに、「馬ヒル」の学術名のhaemopsis とは「血を飲むこと」を意味し、馬ヒルは16g もの血を吸うとのことですので、それで貪欲さを象徴する生き物として例示されているのだと想像します。
 後半の「満足しないのは三人〔の娘たち〕」と「もう十分と言わないのは四人〔の娘たち〕」ですが、ここでは箴言の女性嫌悪・女性蔑視(ミソジニー)を明らかにするために「三人〔の娘たち〕」と「四人〔の娘たち〕」と訳しました。あるいは、従来の日本語訳聖書のように、「満足しないのは三つ」と「もう十分と言わないのは四つ」と訳し、この三つと四つの謎を後続の16節が解き明かしていると考える方が分かりやすいかもしれません。しかし、私訳では「二人の娘たち」が「三人の娘たち」から「四人の娘たち」へと増え、それに伴って貪欲さも増していくという数え歌として理解する説を採りました。その場合、「三人の娘たち」と「四人の娘たち」という表現からは「ヒル」の姿はすでに消えてしまっていますので、「貪欲」の隠喩(メタファー)として「娘」(女性)だけが残されているということになります。そして、これこそが冒頭で触れた箴言からダダ漏れる女性嫌悪・女性蔑視(ミソジニー)ということでもあります

 今月の聖書の言葉は、担当者が日々の生活において、自分のやろうとしていること、自分のやっていることが不安になり、これでいいのだろうか、どこで振り返ればいいのだろうか、そしてわたしは誰なのだろうかとさえ感じ、不安に苛まれてしまうことから選んだとのことです。
 箴言は貪欲さを人間の飽くことのない欲望として批判していますので、担当者が感じている不安と貪欲とは無関係なものだと感じてしまう向きもあるかもしれません。しかし、担当者が抱え続けている不安感は、箴言30章15節において人間の貪欲さが「もっと、もっとと求める二人の娘たち」に止まるものではなく、「満足しない三人の娘たち」から「もう十分と言わない四人の娘たち」へといやましにエスカレートしていく状況とパラレルだと言えるのではないでしょうか。つまり、人間の抱える「不安」や「苦悩」さえも、「もっと、もっと」とエスカレートしてしまう人間の貪欲さでもあるということです。
 身近にいる大切な人を亡くした喪失感を抱えつつ、あのとき何かもっとできることがあったのではと後悔に押し潰されるとき、そして遠く離れた地で止むことのない殺戮が繰り返されて罪責感に苛まれつつ、何もできずに無力さに打ちひしがれてしまうとき、わたしたちは「もっと、もっと」と求めざるをえないのです。
 箴言が求めるのは現実路線です。それは現状維持をもたらします。しかし、箴言が女性嫌悪・女性蔑視(ミソジニー)によって否定する「もっと、もっとと求めるヒルの二人の娘たちの《貪欲さ》」と「現状に満足しない三人の娘たちの《貪欲さ》」と「もう十分と言わない四人の娘たちの《貪欲さ》」こそが、現実世界を変えていくように思えるのです。貪欲を否定することが現実を変えさせないための口実だとすれば、その口実の嘘を見抜き、その口実に抗い、「もっと、もっと」と際限なく求め続けてもいいのではないでしょうか。現実を変えていくための貪欲さは――そしてそのための不安や苦悩は――肯定してもいいのです。
(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)

 
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