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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

虚しく風を追うように ――単純さと複雑さの狭間――

2025年5月1日

虚しく風を追うように

――単純さと複雑さの狭間――

7人間の労苦の全てはその口のため。そして、その魂は満たされない。8実際に、賢者は愚者よりも何か益があるか。生者たちの前に歩むのを知る貧者に何か〔益があるか〕。9目が見ることは魂が去り行くよりは良い。だが、これもまた空であり、風を追うこと。(コヘレトの言葉6章7−9節[私訳]) 

29見よ、これだけがわたしの見定めたこと。神は人間をまっすぐ〔な者〕に創造した。だが、彼ら〔=人間〕は数多の謀略を追い求めた。(コヘレトの言葉7章29節[私訳])

 コヘレト書はニヒリズム(虚無主義)やペシミズム(厭世主義)の祖と言える文書です。コヘレトに共鳴すると、労苦してヘブライ語でコヘレト書を読んでみたところで、それがいったい何になるのかと嘆きたくもなります。とはいえ、ユダヤ教がコヘレト書を聖書に組み入れてくれたことによって、宗教や信仰が希望に満ちた夢物語だけで成り立っているわけではなく、辛酸に満ちたこの世界の現実を覚めた感覚で見つめるものでもあることを悟らせてくれているように思えます。

 コヘレト書6章7−9節はあらゆる人間が死に定められた運命にあることを伝えています。7節は人間が働いた結果として得られるのはその時々の「口」(食欲)を満たすだけでしかなく、人間はまたすぐに空腹になり、その「食欲」――「魂」と訳したנֶפֶשׁ(ネフェシュ)は「食欲」を含めた「欲求」の意味をも持ちます――は満たされることなく、死ぬまで同じことが繰り返される定めにあるというのです。8節前半はこの世界の価値基準とされる「賢者」と「愚者」という二項対立図式を無効化しています。8節後半の「貧者」はここでは「賢者」の言い換えであり、いかに現世の人生を敬虔に――この場合の「貧者」とは神の前に「敬虔な者=信仰深い者」ないし「苦しみに耐える者」の意――生きようとも、その最後は貪欲に生きる「愚者」と同じ死が待ち構えているという諦念が露わになっています。9節冒頭の「目が見ること」は「現世を生きていること」を意味します。したがって、9節前半は生きている方が死ぬよりはマシだと述べているわけですが、9節後半で言われているように、それもまたやがて死に行く定めにある人間にとっては虚しく風を追うようなものでしかないというのです。

 コヘレト書7章29節は「神は人間をまっすぐ〔な者〕に創造した」にもかかわらず、人間は神から離反して「数多の謀略を追い求めた」と伝えています。この背後には創世記3章のアダムとエヴァの楽園追放の物語があり――コヘレト書7章25−29節のミソジニー(女性嫌悪)はエヴァに堕罪の責任を押しつける男性中心主義(アンドロセントリズム)に由来します――、天地創造の初めに神は人間を「まっすぐ〔な者〕に」、すなわち「素直〔な者〕に」ないし「単純素朴〔な者〕に」創造したはずなのですが、楽園追放時のアダムとエヴァが互いに責任をなすりつけたように、人間は相互に「謀略」を働かせて騙し合うことを追い求めるようになってしまったと言われています。

 コヘレトは知恵や知識を追い求め、この世界の不条理の意味を解明しようと生涯を捧げてきました。しかし、6章7−9節からも明らかなように、コヘレトは「賢者」と「愚者」の運命には差異などないとの結論に至っています。そして、7章29節においてコヘレトは天地創造のときにそもそも神は人間を「素直な者」ないし「単純素朴な者」に創造したはずなのに、破戒と堕罪によって知恵と知識を持ち、楽園を追放された人間は「謀略」の虜になってしまったというのです。ここで用いられている複数形の「謀略」(חִשְּׁבֹנ֥וֹתヒッシュボーノート)は「計画」や「発明」(コヘレト7章29節)ないし「装置」や「武器」(歴代誌下26章15節)を意味する語です。要するに、人間の知恵と知識が生み出す総体を表すということです。コヘレトにとって、知恵や知識は称賛すべきものだったはずですが、それは同時に神の創造の業に反する悪しきものでもあったことをコヘレトは悟るのです。それゆえ、7章29節前半の「見よ、これだけがわたしの見定めたこと」は肯定的な意味ではなく、知恵と知識を追い求めつつも、その知恵と知識を否定せざるをえなくなった自分自身に対するアイロニー(皮肉)の言葉だと言えるのです。

 担当者が今月の聖書の言葉としてコヘレト書のテクストを選んだのは、わずかに残っていた世界の良心のようなものが風に散って失われていると感じ、それは世界情勢からだけではなく、日常の暮らしからも、そして自らの内臓の奥からも失われているのではないかというある種の恐怖の念に襲われているからだといいます。そして、風に流されるように、わずかに残っているかもしれない良心のようなものを探すだけでよいのだと自分に言い聞かせ、コヘレトが複雑に考えて、最終的に辿り着いたのが「風を追うこと」とはいったいどういうことかと思ってしまったらしいのです。

 ここで担当者が「コヘレトが複雑に考えて」と述べているのは、新共同訳聖書のコヘレト書7章29節の「ただし見よ、見いだしたことがある。/神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ」という訳文に基づいています。私訳において「謀略」と訳したחִשְּׁבֹנ֥וֹת(ヒッシュボーノート)は、口語訳では「計略」、協会共同訳では「策略」と訳されており、新共同訳がこの語を「複雑な考え方」と意訳した理由は定かではありません。しかし、このテクストを自分なりに読解した後に、改めて「神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる」という訳文に接すると、新共同訳の翻訳は芯を喰っているのではと妙に納得してしまうのです。

 新共同訳の理解に頷いてしまうと、これまでコヘレト書のテクストを長々と解説して、複雑に考えてしまっている自分はいったい何をしているのだろうかとうなだれてしまい、コヘレトよろしく自分自身に向かってアイロニー(皮肉)のひとつも言いたくなる気持ちも分からないではありません。所詮は素直で単純素朴でしかないのに、何を背伸びして複雑に考えて格好をつけているのかと。それはコヘレトが言うように、「虚しく風を追うこと」でしかないからです。だからといって、素直で単純素朴でしかない自分自身を受け入れたところで問題が解決するわけでもありません。「数多の謀略」に満ちたこの世界では、素直さや単純素朴さは複雑系を気取る者たちの格好の餌食として、騙されて翻弄されてしまう危険が常につきまとっているからです。

 ではどうすればいいのか。答えなんてないのかもしれません。コヘレトでさえそうだったのですから。たとえ辿り着けなくとも、その答えを求めて、「単純さと複雑さの狭間」を彷徨いつつ、「虚しく風を追うように」生きるほかないのではと諦めとも悟りともつかない心情(信条)に辿り着いています。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン:宗利淳一)

 
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