第41総会期伝道推進室は前総会期同様、石橋秀雄教団総会議長が室長となり、1月22日、2月15日に委員会を開催した。委員として齋藤篤、中嶌曉彦、書記に網中彰子を選任し、担当幹事は引き続き石田真一郎幹事が務める。
第1回委員会では、はじめに石橋室長より、機構改定を更に推進していく展望が語られた。伝道推進室は第37総会期に教団が伝道に進んで取り組み、教団内の諸教会の伝道の進展に寄与することを目的として可決され発足した。主な活動内容は、伝道対策の検討、伝道キャラバンの企画・実施、伝道トラクト・ポスデカの作成、『室報』(伝道推進室ニュース)発行、伝道礼拝・集会等の講師派遣、諸教会の伝道相談への対応等である。
「伝道に燃える教団・伝道する教団の建設」に向けての取り組みは、すべて聖霊の導きにより諸教会で続けられている。室報では誌面でその恵みを報告し、喜びを分かち合った。伝道トラクト4種類は教会入口に備え付ける他、内容に応じて葬儀の際に用いられるなど工夫して活用されている。
今総会期は、教団伝道対策検討委員会に書記が委員として出席し、教団伝道推進基本方針展開検討委員会小委員会に陪席するなど、伝道推進室との接点が増えることから、教団全体の働きについて一層祈りに覚え、見据えながら活動することとなる。
伝道キャラバンに関しては受入れ諸教会との綿密な準備が必要となるため、時間に余裕をもって備えていくこととした。
宗教改革500年を記念して開催された中高生大会、青年大会等を経て、若い世代を中心に様々なネットワークが形成されている。そのつながりを大切にし、また青年に関わる具体的な計画が提示されたときに必要な協力をすることが出来るよう備えていくこととした。
(網中彰子報)
第55回西日本五教区合同宣教研究協議会が1月28~29日、岩国東教会で開催された。西日本五教区合同宣教研究協議会は、東中国、西中国、四国、九州、沖縄の五教区の宣教研究に携わる機関の者が集まり、課題共有、情報交換を目的に年一回開催されている。1964年に第1回が行われた。
本協議会の歩みを振り返り、これからの在りようを考える時期ではないかとの声から、一日目前半は第39回から第47回まで本協議会に参加していた四国教区の黒田若雄教師より「西日本五教区合同宣教研究協議会の歩み」として発題があった。その後、質疑応答、意見交換を行った。
この会が教団紛争時も続けられ様々な立場がありつつも、それぞれの地の宣教課題を分かち合うことの大切さを確認した。
一日目後半及び二日目前半は、各教区の宣教課題、取り組みを共有する時間を持った。そこには、教会に集う人の高齢化、牧師の不足、経済的な課題、社会的な課題との関わり等、実に多種多様な課題と取り組みがあった。それらに共通するものとして感じられたのは「教会のこれから」であったように思う。様々な困難を覚え、それぞれの地に建てられたものとして祈り、隣人と共に歩んでいこうとする姿に改めて励ましを受けた。
二日目後半は岩国教会の大川清教師の案内で岩国基地フィールドワークを行った。米軍機、自衛隊機、空中給油機合わせて170機以上の戦闘機が飛び交う岩国基地と関連施設を回る中、爆音と共に訓練飛行する戦闘機や空中給油機を見ながら、改めてここが戦争のための場所であることを思い知らされた。
次回は四国教区を会場に第56回を行なう予定である。なお今回、四国教区当該機関は欠席、沖縄教区からは教団と距離を置いている故の個人としての参加であった。 (海老原道宣報)
第141回神奈川教区総会が、2月23日、清水ヶ丘教会にて開催された。開会時には議員229名中155名が出席した。
議事日程承認では教団信仰告白を告白することをもって会議を開始する、という修正が提案された。三宅宣幸議長は「議事日程は常置委員会で審議の上提案している。信仰告白を軽んじるわけではない」と原案について説明した上で採決した。157名中賛成78名で修正案を否決、今総会において信仰告白を行わないこととした。教区基本方針を古谷正仁副議長が朗読し審議を開始した。
議長、副議長、常置委員選挙はすべて予備投票を行い候補者を選出、本投票を行った。また書記は、議長、副議長の推薦を議場が承認して選出された。三役は再選された。
1名の准允、3名の按手執行について審議した。議長が執行の採決前に従来から行ってきた「教団の教師検定試験は神奈川教区から見て不当とまでは言えない」という宣言の取り止めを求める意見が動議として扱われた。採決の結果、宣言を行わない動議への賛成は163名中64名となり否決、従来どおりの宣言をして執行を可決した。
19年度教区活動基本方策案・活動計画案では「福音を伝道する」の一項目を加える修正案を138名中52名の賛成にて否決して原案を可決した。
19年度教区予算案は、前年予算比79万9000円減の5657万2000円を可決した。
1966年に秦野西伝道所として設立された秦野西教会の19年3月末をもっての解散を承認した。教会用地の土地所有者からの返還要請を熟慮して解散を決定したことが報告された。19年度から神奈川教区は106教会・伝道所となる。
三役選挙結果
【議長】三宅宣幸(元住吉)、【副議長】古谷正仁(蒔田)、【書記】佐野匡(横浜本郷台)
常置委員選挙結果
【教職】網中彰子(横浜明星)、飯田輝明(溝ノ口)、愛澤豊重(横浜菊名)、小林美恵子(横浜上倉田)、松下道成(大船)、原宝(上大岡)
【信徒】望月克仁(鎌倉雪ノ下)、山﨑輝幸(横浜指路)、吉岡直人(六角橋)、松橋秀之(蒔田)、沖田忠子(横浜港南台)、古賀健一郎(紅葉坂) (新報編集部報)
村椿梢子氏(隠退教師)
19年2月6日逝去、93歳。東京都生まれ。51年日本基督教神学専門学校卒業。同年より横須賀学院に務め、本牧めぐみ教会を牧会し、90年より沖縄教区に務め、98年隠退。
遺族は息・村椿嘉信さん。
中澤實郎氏(隠退教師)
19年2月20日逝去、81歳。長野県生まれ。63年東京神学大学大学院卒業。同年より堺川尻、泉大津、堺川尻、若松浜ノ町、豊田、函館教会を牧会し、弘前学院に務め、須坂教会を経て14年隠退。
遺族は妻・中澤静代さん。
滝沢陽一氏(隠退教師)
19年2月23日逝去、95歳。長野県生まれ。48年受允、55年受按。48年より神奈川、下谷、神奈川、鎌倉、相模原南教会を牧会し、91年隠退し、99年隠退復帰し、07年隠退。
遺族は息・滝沢光一さん。
菊地 順
(聖学院キリスト教センター所長)
学校法人聖学院は、アメリカのディサイプルス派の宣教師たちによって生み出されましたが、その最初の宣教師の一人、チャールズ・E・ガルストを紹介したいと思います。
ガルストは1883年に日本にやって来た宣教師です。このとき、ガルストは30歳でした。ガルストは、日本に来る前は、ウェスト・ポイントというアメリカの有名な陸軍士官学校を出た軍人でしたが、ガルストは自分から進んで士官学校に入った人ではありませんでした。初めは、アイオワ州立大学で2年間農学を学び、その後その方面の仕事をしましたが、ある時その能力と人柄を認められて陸軍士官学校に推薦されることになったのです。当時、ガルストの父親は医者をしていましたが、8人兄弟であったため、経済的にあまり豊かではありませんでした。おそらく、そういうこともあって、ガルストは19歳で推薦されるまま士官学校に入学することになったのです。
しかし、その4年間の士官学校時代に、ガルストは2つの重大な出来事を経験することになりました。一つは、母親の死です。母親は、アイルランドの出身で、非常に信仰心が厚く、ガルストには牧師になることを期待していました。もう一つの出来事は、宗教的信念の変化でした。ガルストは、当時さまざまに分裂していたキリスト教世界を再び一致させようという運動をしていたアイザック・エレットの呼びかけに深く共鳴するようになり、軍人として立身出世するよりも、キリストの一兵卒として、キリストと人類のために仕えたいと思うようになったのです。しかし、士官学校を卒業した者は8年間軍務に服さなければならないという規則がありましたので、ガルストは卒業後8年間軍務に服し、その間宣教師になる準備をしたのです。そして、同じ志を持つ女性ローラと結婚し、1883年、もう一組の宣教師夫婦であるスミス夫妻と共に、日本にやってきたのです。
その後、ガルスト夫妻は、半年ほど横浜で日本語の勉強をしてから、まだ宣教師が入っていない東北の地、秋田を選んで、スミス夫妻と共にそこに行くことになりました。
しかし、当時の秋田はまだまだ辺境の地で、古い日本の風習がそのまま残っていた地域でしたので、多くの苦労を経験しました。人々からは好奇の目で見られ、また難解な日本語に悪戦苦闘し、さらにキリスト教に対する偏見という大きな社会的壁にぶつかりました。そればかりか、ノミや蚊といった不衛生な環境にも苦しめられました。そして、そうした困難な生活の中で、一緒に秋田に行ったスミス宣教師の妻ジョセフィンが、着任の翌年、8歳の娘を残して病死するという悲劇が生じました。
しかし、そうした宣教師たちの生き様は、徐々に人々に深い感銘を与えることになり、ガルストたちの働きは次第に受け入れられていったのです。そして、秋田での4年間の生活は実に実り多いものとなりました。
その後、ガルスト夫妻は、さらに活動の範囲を広げるために、山形県の鶴岡という町に移り、そこでさらに4年間活動します。そしてその後、休暇で1年アメリカに帰りますが、1893年、再び家族と共に日本に戻り、今度は東京に居を構えながら、全国を伝道して回ったのです。その間、ガルストは、キリスト教の伝道だけではなく、政治や税制についてもしばしば重要な発言をし、特に税制に関しては、自ら「単税太郎」と名乗って「単税論」を唱え、税の不公平をなくすよう努力しました。また多くの政治家や社会活動家の相談役にもなりました。伊藤博文は、そうしたガルストの働きを高く評価し、「西洋は未だかつてチャールズ・E・ガルストに勝る贈物を送ったことがない」と語ったほどでした。
しかし、そうした多忙な働きのために、健康を著しく損なってしまいます。それには、秋田時代から何度か重い病に見舞われ、次第に健康を損なっていたことも影響していました。そして1898年12月28日、日本の地で45歳の生涯を閉じることになったのです。今でも、その墓は、東京の青山霊園にあります。
ガルスト宣教師は、感銘深い言葉をたくさん残していますが、亡くなる直前に、遺言はないかと妻から尋ねられた時、こういう言葉を語っています。それは、「My life is my message」という言葉です。その遺言が示すように、ガルスト宣教師は、正にその生き様そのものを通して、日本人にキリストのメッセージを語った人であったと言えます。(Kyodan Newsletterより)
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