前期委員会からの申し送り事項の一つに、式文の扱いについて検討することがあり、これは教規に示された当委員会の職務に直接関わることなので、今期はまずこれを優先することとした。
ここで「式文」とは、『日本基督教団式文(試用版)』(「試用版Ⅰ」)と、同(試用版Ⅱ)のことで、それぞれ2006年、2009年に発行されたものである。これらは新しい式文の発行を目指して、そのために各方面からの意見を寄せてもらうことを期待して発行されたものであるが、これまで当委員会から意見を収集することはしてこなかった。今期は試用版Ⅰの発行から10年が経過することから、ここで試用版について実際に使用されている現場からの意見を求め、神学的な意見、評価をも聞かせてもらうこととした。
委員会としては、新しい式文の発行を視野には入れているが、従来の文語式文や口語式文、さらに試用版の検討ないし評価まではできるとしても、「礼拝指針」を持たないままでその先の作業にどう進むことができるのか、なお課題は多いと考えている。
また、教憲教規諸規則について、問題点の指摘を受けることがある。改正の提案は当委員会の任務ではないと考えるが、委員会として問題点の整理はしておきたい。コンメンタールの作成を視野に入れた教憲教規の学びの継続ということも前期からの申し送り事項であったので、こちらも欲ばらずに可能な限り継続しようと思う。
(信仰職制委員長)
中島康三氏(隠退教師)
15年7月9日逝去、93歳。愛知県生まれ。89年受允、91年受按。89年より八千代台教会を牧会し、99年に隠退。
遺族は娘・山本麻奈さん。
藤原 亮氏(隠退教師)
15年7月28日逝去、91歳。東京都生まれ。51年受允、54年受按。51年より鎌倉雪ノ下、小田原十字町教会を経て、95年に隠退。
遺族は娘・髙桑厚子さん。
和田信子氏(隠退教師)
15年8月11日逝去、84歳。東京都生まれ。62年受允、69年受按。63年より西片町、日立南教会を経て、07年に隠退。
遺族は姪・栃下真理さん。
にじのいえ信愛荘」は日本基督教団の隠退教職ホ―ムです。1959年、東京教区によって設立された「信愛荘」と、1973年、全国教会婦人会連合によって館山市に設立された「にじのいえ」が合併して5年が経ちました。
ホームは、美しい自然に囲まれた青梅市の郊外にあります。主からの召命に従い、生涯を宣教に捧げられた牧師とその配偶者が、隠退後の生活を平安のうちに過ごすことができるよう備えられました。
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ホームは27名が入居でき、常時20数名の方が生活しておられます。平均年齢は84歳、最高齢は93歳です。最高齢のこの方は今年で28年を過ごしておられますが、あの日、静かに語られました。「東日本大震災の時、最終任地の東北の教会で洗礼を授けた姉妹が津波で流され、天に召された」と…厳しい状況の中で伝道牧会に励まれた牧者の老後が、主からの慰めと憩いに満ちたものであるよう心から願います。
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荘での一日は、朝食前に食堂で持たれる礼拝ではじまります。日曜日には、礼拝堂で主日礼拝が守られ、説教は在荘の教職と外部からの教職が担当します。
「ここは皆、神の家族です」とよくおっしゃいます。年齢を重ね、健康不安を抱える中で、スタッフの誠実なお世話を受けながら、安らかに過ごしておられます。毎月行われる誕生会は特別メニューで、お祝いの方の愛唱讃美歌を歌い、荘長からのお祝いカードなど、祝福に満ちた会となります。
◇
にじのいえ信愛荘の管理運営は、教団が委嘱した運営委員会(東京教区、西東京教区、全国教会婦人会連合、等)によってなされています。入居者を特定しているため、公的援助は受けられず、維持運営は、全国のキリスト者、教会、学校、団体等からの献金によって支えられています。
この度、献金用の袋を用意しました。どうぞご利用くださいまして、尚一層、ご支援の輪を広げていただけますよう、心よりお願い申し上げます。(飯澤弘子報/「にじのいえ信愛荘」運営委員)
アニー・ダウドは、1861年11月6日「ミシシッピ州ダウド」だけで郵便が届いたと言われるほどの名家に、弁護士の三女として生まれました。女学校卒業後は教会付属の学校で音楽の教師として働いていましたが、やがて外国人に神の救いを伝えたいという思いを強く持つようになりました。丁度その頃、高知に来ていた宣教師の依頼を受けた南長老派教会は、26歳のダウドを高知に赴任させました。
1887年、高知英和女学校の教師として来高したダウドは、教師のかたわら、独力で市内の婦人たちに聖書を教え、キリスト教伝道を熱心に行いました。この学校は10年足らずで廃校になりましたが、ダウドは高知に留まり、僻地伝道を始めました。
その途中で出会った恵まれない少女たちのことが忘れられず、この少女たちに教育を受けさせ、信仰を持つことが出来ないものかと祈り願うようになりました。
1901年、乳ガンの治療から帰ってきたダウドは、鷹匠(たかじょう)町の借家に2名の少女を引き取り、教育を始めました。ここに清和の前身である「高知女学会」が誕生しました。ダウド40歳でした。15、16歳になっても全く教育を受けていない貧しい家庭の少女たちを次々に引き取りました。ダウドは、生活を共にしながら勉強だけでなく生活に必要な全てのことを教えました。
高知女学会は家庭のような学校で、全員が寮で生活をしていました。毎日、朝夕に礼拝を守り、日曜日には全員が教会に出席しました。英語だけでなく音楽教育にも力を入れ、全員がピアノやオルガンを弾くことが出来ました。授業で作った刺繍の作品は、学費補助のために米国の教会で販売してもらいました。
女学会の経営は困難でしたが、生徒たちは必要な物を十分に与えられていました。ダウド自身は自らの給与を切り詰め、安い質流れ品の洋服を仕立て直し、繕った靴下を履き、穴を隠すために幾つものボタンをつけたスカートをはくなど質素な生活をしながら経営を続けていました。規模が大きくなった学校の経営は、1915年からはミッションの経営に変わりました。1924年には米国の教会の婦人たちの献金によって鷹匠町に新校舎を建てることが出来ました。
しかし、この校舎は3年後の1927年12月3日、ストーブの煙突の故障が原因で全焼してしまいました。ダウドは使い古した聖書だけを片手に生徒たちを誘導し、1人の怪我人も出しませんでした。「泣き叫ぶ女生徒。ダウド嬢の目にも涙」の見出しで、機敏な避難の様子が新聞記事に残されています。ダウド66歳の時でした。
校舎の消失にがっかりしたダウドでしたが、「泣くのは止めましょう。神様には仕方がないことはありません」と再建への祈りを始めました。廃校を考えていたミッションの支援は得られませんでしたが、卒業生とダウドの働きに共感する多くの人々の支援により、翌年には校舎を再建することが出来ました。
このようなダウドの働きに対して、高知市はダウドの表彰を決めました。当時としては異例のことでした。最初、固辞していたダウドでしたが、神の栄光のため、全力を注いで主の業に励んだ結果だと教職員に勧められ、1933年2月11日に表彰を受けました。その文面には、「冷静深厚、博愛の心に富み、宣教師として遠く本市に来任し、熱愛を持って伝道に従事せらる。傍ら、高知女学会を創設して薄幸なる女子教育に従事すること30余年。古希を過ぎても疲れることを知らず、地方教化のために力を尽くされた功績は寔(まこと)に甚大なり」と記されていました。ダウドの名前とその働きが県下に知られるようになりました。
宣教師としての定年延長をしていたダウドでしたが、高知女学会の経営がミッションから高知教会に変わり、清和女学校になったのを機に帰国の決心をしました。
1937年4月12日、76歳のダウドは帰国の途につきました。人生のほとんどを高知のために捧げ、「帰りたくありません。神様が赦して下されば高知で死にたい」と高見山に墓地まで買っていましたが、神様は高知での働きをこれまでと定められダウドを帰国させました。
1901年、一人の宣教師によって始められた小さな清和学園は、多くの困難の中でダウドの思いを大切にキリスト教主義の学校として存続しています。ダウドの名前を聞く時、私たちは信仰による小さな働きが、大きな実を結ぶことを思い出します。
ダウドは、帰国後はミシシッピ州ジャクソンにある老婦人ホームに暮らしました。目も耳も不自由になり、足も弱っていたダウドでしたが、ホーム内では、バイブルクラスを開いたり、寝たきりの婦人たちを訪問したりするなど、祈りと聖書を読むことを欠かさない生活を送り、1960年4月23日に99歳で天に召さるまで、ダウドの生涯は神様に仕えるものでした。(Kyodan Newsletterより)
矢野肇さんの信仰のルーツは曾祖母の時代まで遡る。曾祖母は江戸時代生まれのクリスチャンだった。子ども時代、曾祖母が天眼鏡で聖書を読んでいた姿を憶えているそうだ。父方の祖父は熱心なクリスチャンで、伝道にかなり力を入れていたようだ。家にあった仏壇も処分されたそうだ。母方の祖父は松山番町教会からは離れたところに住んでいたが、熱心に教会に通った。
両親も松山番町教会で洗礼を受けた。父は明治生まれで、7人の兄弟姉妹の長男であり、教員であった。結婚後、日本で教員をしていたが、1938年に満州の奉天市(今の中国瀋陽市)に移住した。
矢野肇さんは、満州の奉天市で1940年に誕生した。満州のことは幼少であったため、あまり記憶がないが、終戦後、ロシア兵3人が家へ靴のままで銃を肩に入って来て、物を物色して、家中のものをひっくり返し、父と妹と肇さんは呆然として恐ろしかったこと、そのとき母は床の下に隠れ逃れていたことを憶えている。
1946年に満州から引き上げて帰った。小学生の頃、母に連れられて松山番町教会の日曜学校(教会学校)に通っていた。父が教員であったため、その影響で教員めざして愛媛大学に入学した。一般教養の時、YMCAに入会し、キリスト教について学んだ。その頃、学生運動も盛んで60年安保闘争の真っ最中。全学の学生がデモに参加したことがあった。学生のとき、松山の日本基督教団の教会をあちらこちらへ行ってみた。
教員となり、仕事の忙しさで当分お休みしていたが、結局両親が所属する松山番町教会に落ち着いた。そして1969年に松山番町教会の宇都宮充牧師より洗礼を受けた。結婚式も松山番町教会で挙げた。妻はクリスチャンではないが、理解は示してくれている。現在はこの教会で礼拝へ出席できることに感謝している。
松山番町教会員、役員、墓地委員長、バザー委員長。
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