第39回教団総会において、伝道資金設立に関する件が可決成立し、常議員会のもとに伝道資金小委員会が組織された。
委員は、佐々木美知夫(委員長・教団副議長)、高橋和人(書記・常議員)、鈴木功男(常議員)、高橋潤(常議員)、邑原宗男(奥羽教区議長)、井ノ川勝(中部教区議長)、木下宣世(東京教区議長)、成田いうし(伝道委員会)、米倉美佐男(宣教委員会)。
この制度は、各教区に全教会収入総額の0.5パーセントを教区現住陪餐会員数の比率により賦課した伝道資金負担金を、それぞれの教区からの申請に基づいて、①各教区への伝道活動と小規模教会援助を行う伝道交付金、②各教区の伝道方策に用いる伝道方策交付金、③土地取得のための貸付資金として交付するものである。
委員会の主な務めは、申請を審査し、常議員会に交付を提案することである。今回は制度の初年であり、新年度の交付に間に合うように、各教区に急いで申請を提出してもらい、早急に審査することとなった。
第1回委員会は、11月28日。資金規則の確認と委員会の作業、伝道資金運用指針の確認を行った。今回の負担金の総額は5868万9千円となり、申請額は「伝道交付金」と「伝道方策交付金」合わせて586万円を上限として各教区に申請を願った。
第2回委員会は、2月6日。伝道資金申請教区は14教区。未申請教区のうち、負担金納入予定は現在1教区。申請書の審査の結果、14教区の伝道交付金、伝道方策交付金総額は5125万3千円であった。委員会では慎重に審査した結果、今回は各教区申請どおりの交付を提案することとなった。
残額の743万6千円は、規則8条により土地取得貸付金として積み立てる。以上のことを、2月10日の常議員会に提案することとした。
(高橋和人報)
2月2日〜3日、大阪クリスチャンセンター2階会議室において、今総会期第1回部落解放センター運営委員会が開催された。出席者は26名。運営委員長には東谷誠(大阪)さんが信任され、平井克也運営委員が書記に承認された。常任委員には、委員長、書記、新活動委員長の他、井殿準、宮田誉夫、横山順一委員が選任された。
活動委員選任では、岡本拓也前活動委員長より、第38総会期活動委員会で決議された推薦者名簿が配布され、推薦に至る経緯の説明をし、決議し選任された。センター主事任期については協議ののち、任期を延長した。各報告、各教区報告など様々な取り組みについての報告、2015年度予算、活動献金目標額の承認などが行われ、各議案について時間をかけて審議がなされた。
「沖縄キャラバン」について、東谷運営委員長をキャラバン隊長に任命し、日程を10月18日から31日の内の12日間程度、予算については140万円を見込むことが承認された。
また「沖縄キャラバン」が10月になったことを鑑みて、「部落解放全国会議」2016年度の開催は見送り、2017年度に開催、開催場所については継続審議となった。
イタリア・ワルドー派、EMS献金の報告を受け、東谷運営委員長より、本献金については特別会計として活動を行っているが、万が一不足の場合は運営資金より補填し、もし余剰が出れば経常会計に繰り入れたいとの提案があり決議し承認した。
東海教区常置委員会陪席については、東谷運営委員長1名を派遣し、委員会における対応は東谷委員長に一任することを承認した。第39回教団総会における差別語の使用について、活動委員会において継続して取り組んでいくこととした。『良き日のために』掲載予定の「改訂宣教基礎理論第二次草案について」原稿については前活動委員長岡本拓也として原稿を掲載してもらうこととした。
次回委員会は6月8日~9日、場所は東京を第一候補として開催の予定。(平井克也報)
長崎哲夫総幹事と加藤誠世界宣教幹事は、1月25日〜2月7日、旧JNAC(日北米宣教協力会)に関わった北米諸教団を公式訪問した。この きっかけは米国CGMB共同世界宣教局東アジア担当朱暁陵(シャオリン・ズー)幹事から1月29、30日にニューヨークにて開催の「アジア・太平洋フォー ラム」への参加を強く勧められたことであった。
2004年のJNAC解散以降、PCUSA(アメリカ合衆国長老教会)、RCA(アメリカ改革派教会)とは宣教協約を結びつつも北米諸教会との交流が希薄になっていた点を改善する良い機会であり、東日本大震災後の献金の御礼とキリスト教主義学校への宣教師(教育)派遣依頼を行うことが訪問の主な目的であった。
最初の訪問先はトロントにあるUCCanada(カナダ合同教会)の本部であった。カナダ長老教会代表者と在日大韓基督教会の金柄鎬(キム・ビョンホ)総幹事と許伯基(ホ・べッキ)幹事が加わり、お互いの教会の紹介と課題を共有した。
ニューヨークは生憎の大雪のため予定より一日遅れて到着したため、フォーラム前日に予定していた聖公会訪問等がキャンセルになったのは残念であったが、フォーラムには予定通り参加した。結論を言えば、教団はJNACの代わり足り得る存在としてアジア・太平洋フォーラムを認識し、その交わりに入ることも考えられるであろう。各教派共通の、そして緊急な課題である青年を育てることが話し合われた。
具体的には2016年7月26日から米国で大規模なユースミーティング(14~18歳)が開催される予定であり、教団からは10名の青年を派遣するよう要請された。
2月1日の聖日はニューヨーク北部にあるユニオン日本語教会の礼拝に参加し、昨年末に赴任した西川晃充宣教師と教会員の方々との交わりの時を持った。
翌月曜日はインディアナポリスにあるディサイプルズとクリスチャン・チャーチの本部を、朱幹事の案内で訪問した。驚いたのは年金局の隣に投資専門のスタッフルームがあり、年利10%に相当する利益を上げているとのことである。
水曜日にはクリーブランドにあるUCC(米国合同教会)本部訪問、木曜日にはルイビルにあるPCUSAの本部を訪問した。UCC本部は経営するホテルと直結する構造だった。2年以内にホテルも含めたビルを売却し、より安い経費で運営できるビルに移るそうである。そこには差額をより積極的に宣教に用いようという戦略がみえた。
(加藤 誠報)
中山節子氏(隠退教師)
15年1月27日逝去、77歳。宮城県に生まれる。62年に東京神学大学大学院を卒業、同年より金沢、木更津、武蔵野、所沢武蔵野、三芳、桜新町教会を経て08年に隠退。
遺族は夫・中山弘隆さん。
丹羽清治氏(隠退教師)
15年1月28日逝去、82歳。東京都に生まれる。59年に受允、65年に受按、59年より青山学院、世田谷中原、水海道教会を経て98年に隠退。
遺族は妻・丹羽百代さん。
福岡女学院の歴史は、米国メソジスト監督教会の日本宣教にその源を発する。学院の創立は、「切支丹禁制」の高札が撤去された1873(明治6)年から、12年を経た1885(明治18)年のことである。
1873(明治6)年、米国メソジスト監督教会は、横浜、東京、函館、長崎に4人の宣教師を派遣し、長崎にはジョン・デヴィソンが派遣された。それらの地には教会が建てられ、キリスト教に基づく学校が設立されていった。特に理解に乏しかった我が国の女子のための学校創設は、こうしたキリスト教の宣教に負うところが大きく、日本の女子教育の先駆けとなった。
1884(明治17)年、福岡で最初の教会(福岡美以美教会)が設立されると、次第に女子の学校開設を望む声が強くなり、この声が、当時、米国メソジスト監督教会の九州地区の拠点であった長崎に伝えられた。
1885(明治18)年4月22日、当時、長崎の活水女学校にいたギールは、神学生大島サキと福岡を訪れ、6日間滞在し視察した。その後、5月28日にギールはデヴィソンと大島を伴い再び来福し、6月15日、福岡美以美教会の仮会堂で、キリスト教による女子の学校、英和女学校を開いた。これが後の福岡女学院である。
福岡女学院の創立者ジェニー・M・ギール(Jennie Margaret Gheer)は、1846(弘化3)年11月13日、米国ペンシルバニア州プレア郡ベルウッドで生まれた。ペンシルバニア州立師範学校で学び、卒業後アンティス、タイロン、アルトーナ地区の公立学校で教鞭をとった。その頃、米国メソジスト監督教会婦人外国伝道会の海外伝道の話を聞き、召命を受け、その道に献身したい旨を同会に申し出た。同会はその志を受入れ、ニューヨーク支部の派遣員とした。そして、シンシナチ支部派遣のラッセル宣教師の協力者として、1879(明治12)年11月13日、ゲイリック号で来日し長崎に着いた。その時、ギールは33歳であった。
長崎ではラッセルを助けて、活水女学校の創立に尽力し、創立後は神学科指導者として、また音楽に優れ、音楽科の開設にも努力し、創業期における活水女学校のすぐれた功労者とされた。なお、地域での活動の場を広げ、日曜学校の開設、婦人運動の指導などにも力を注ぎ、また、この地方の音楽の開拓者と呼ばれた。
1885(明治18)年6月15日、英和女学校の初代校長となったギールは、学外の活動にも骨身をおしまず活動し、福岡師範学校の生徒たちで、聖書を学び英語の勉強にやって来るものたちを熱心に指導し、また頼まれれば英語の教授にも出かけた。
特に婦人伝道師の養成に力を注いだ。そのことは、1885(明治18)年『Heathen Woman’s Friend(異教国の婦人の友)』3月号に掲載された「長崎で初の婦人伝道師ジーン・ギールからの手紙」の中で紹介されている。
ギールは暇を利用して茶道を学び、地域の人たちとの交わりにも努め、学内、学外を問わず、教育と伝道に誠実に取り組む校長として信頼を集めた。
しかし、1887(明治20)年6月、健康上の理由により在職わずか2年でやむなく校長を辞任し、帰国することとなった。
その後、再び来日、伝道のための尊い働きがなされた。伝道旅行を続けて積極的に福音を説き、たびたび福岡を訪れて英和女学校のためにも尽力した。
1891(明治24)年、活水女学校で婦人伝道者養成クラスを指導していたが、再び健康を害して、1894(明治27)年6月帰米して休養をとった。
1896(明治29)年、再度来日し1907(明治40)年7月に帰国するまで、九州婦人伝道者養成の責任者として活動した。
1909(明治42)年5月、モンゴリア号で再び日本へ向かう途中、ギール他多くの乗客が食中毒で倒れた。充分な回復を待つひまもなく鹿児島で伝道の仕事に就いたが、1910(明治43)年2月、長崎の聖ベルナール病院に入院した。
同年5月17日、ミネソタ号で日本を離れ、6月13日に故郷ベルウッドの妹アンナの家に着いたが、手厚い看護にもかかわらず、わずか1週間後の6月20日午後3時、63歳で永眠。ベルウッドのローガンヴァレーにある両親の墓地の側に葬られた。
なお、ギールは日本では、ジェニー(Jennie 又はJenny)という名前を用いたが、墓碑にはジーン(Jean)と記されている。
ギールが日本で福音を宣べ伝えた30年の間、常に愛用したといわれる聖書が、米国ペンシルバニア州ベルウッド教会(ギールの母教会)の元牧師夫妻によって届けられ、本学創立100周年の1985(昭和60)年5月29日に講堂で贈呈式を行った。
1984(昭和59)年7月、米国合同メソジスト教会のアルトーナ地区総会で、ギールの偉大な業績が紹介され、その中で彼女は今際の時、所属教会の牧師に次のような言葉を残している。「わたくしの名前は覚えられなくてよい。すべては私たちの主イエス・キリストの栄光のために覚えられるべきである。」(Kyodan Newsletterより)
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