新保 恵子 (萩教会担任教師)
私の牧師のパートナーとしての始まりは、伝道師として萩教会に就任した年と重なります。神学校を卒業して、遣わされた教会が、山口県の萩教会です。今年の春で7年目になります。
イエス様に寄りすがるしかない弱い私が、牧師として用いていただいているのは、イエス様の導きと、教会員の皆様はじめ、周りの方々に許されているためだと感謝しています。神奈川県の川崎市出身で、そこから一度も出たことのない私は、萩で体験する一つひとつが貴重な学びです。
そのような中、山口教会と島根県の津和野教会から萩教会に代務の依頼がありました。そこで、萩教会から夫が山口教会に、私が津和野教会へ代務者として派遣されることになりました。昨年の4月から二人で3つの教会に仕えています。
山口も、津和野も、萩から山を越えて車で約1時間かかります。バスや電車の便も限られます。午前中に山口教会か萩教会で説教奉仕をして、午後に津和野教会に通います。そこで、自動車学校へ通って、運転免許を取りました。初心者マークをつけて通っています。
津和野教会は、教会員4名、平均礼拝出席者は牧師を含めて3名の小さな群れです。その津和野教会は、昨年120周年を迎え、近隣の教会の皆様をお招きして、記念礼拝を捧げました。築100年以上の日本家屋の教会です。座席は、12名分の長椅子しかありませんでした。
でも、当日は、38名もの方々が津和野教会を覚えてお越しくださいました。津和野の小さな礼拝堂では、場所が確保できず記念写真が撮れなかったほどでした。
普段3名で礼拝を守る津和野教会は、改めて皆様に覚えられ、支えられていることに感謝し、励まされました。
その後の祝会で、以前に津和野教会で長い間、信仰生活を守っておられた方のお話しを伺い、襟を正される思いが致しました。
「私が子どもの頃のことです。伯父は津和野駅の前で、拷問を受けているキリスト者の叫び声を聞いて、耳に残っていると話していました」。
長崎の浦上の信者たちが津和野に送られた理由は、神道が盛んな津和野で棄教させるためでした。1868年に、まず27名が津和野に送られて光淋寺に収容されました。キリスト者の迫害の事実は、20年ほどでは人々の記憶から忘れられないと思います。でも、迫害と殉教があった20年後、津和野にはじめてイエス様を信じる群れ、教会が起こされました。それが日本基督教団の津和野教会です。この歴史にイエス様の御業を感じます。
このように、萩、山口、津和野を行き来する夫と私は、主日礼拝を同じ教会で守ることが少なくなりました。でも、それぞれの教会のことを祈り合い、イエス様の御業に触れさせていただく恵みに感謝しています。
昨年の10月に在日大韓基督教会の総会にお招きを受けた。その時、同教会憲法規則集をいただいた。
同教会憲法第4条がわたしの心を刺した。
憲法第4条「信徒が自己の信仰を捨てるか変更するように強要を受ける場合、信仰を捨てて転向したふりをして自己を欺瞞する行為は、神の前ですることはできない。信仰は絶対の境地を持っており、そのような虚偽の生活をするより、むしろ良心に従って殉教するのが当然である」。この憲法4条について「日帝時代の信仰の闘いから出来たものだ」との説明を受けた。
心が痛む。日本基督教団の負の歴史を見つめざるを得ない。
「信仰を捨てるか、変更するように強要され」、それを拒否したものが弾圧され、殉教した信仰者の断固たる信仰の告白の土台の上に教会が立てられている。
フィリポ・カイサリア地方で主は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われ、ペトロは「あなたは、メシアです」と告白している。しかし、ペトロはこの告白をもって闘えなかった。あの大祭司の庭で主を三度否定した。このペトロは教会の歴史の中で信仰告白をもって闘い得なかった教会の姿を指し示す。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)
ペトロは信仰告白の挫折と主の赦しと憐れみの中で、この断固たる信仰告白をするものへと変えられていく。圧倒的主の御業によって救われたものが、断固たる信仰告白をなし、もし「自己の信仰を捨てるか変更するように強要を受ける場合、…良心に従って殉教するのが当然である」との信仰の確信に生きる者となることを「信教の自由を守る日」にあたって考えさせられている。
(日本基督教団総会議長 石橋秀雄)
支え合いから始まる平和 大江 浩(総主事)
2010年度は、JOCS創立50周年という記念すべき年でした。半世紀にわたる活動が続けられたことを感謝すると共に、50年間、私たちの活動が必要とされる状況が続いたという事実に痛みをも覚えています。公益社団法人として初年度となる今年度は、従来の海外での保健医療協力と同時に、東日本大震災への対応から幕を開けました。JOCSのこれまでの10か月を振り返ってみたいと思います。
東日本大震災被災者支援から
JOCSの被災者支援活動は、私たちの仲間である仙台JOCSが拠点とする東北教区センター/東北教区被災者支援センターへの協力から始まりました。その後釜石に移り、初期段階(~5月末)では避難所での巡回診療や新生釜石教会前の街角保健室の活動を行いました。
第2段階(6月~)はカリタス釜石(カトリック釜石教会)を拠点に、カウンセラーの派遣や看護チームによる仮設住宅や孤立集落の被災者の訪問ケア活動へとシフトし、今も続けています。
私たちの活動は、被災地における“Care(ケア)”と“Cure(治療)”とをつなぐ役割であると言えるかもしれません。
被災地・釜石の様子
私も数回被災地を訪問しましたが、初回はこの世とは思えぬ惨状にただただ言葉を失いました。少し現地の様子をご紹介したいと思います。
新生釜石教会前の赤テントの「街角保健室」は、地元住民が立ち寄り、お茶を飲みながら話をする、そんなオープンカフェでした。あるご婦人が「家は基礎から跡形もなく洗い流された。夫も連れ去られたが、先日見つかった」と。それを聞いていた同じく被災した若者が「見つかっただけ良かったね。うちはまだ家族が2人行方不明のままだ」と。さりげなく交わされるとても重い言葉に、私はただ聴くばかりでした。
その後、何度か孤立集落への看護チームの訪問ケア活動にも同行しました。被災者の方々は口々に震災当日や直後の様子を語って下さり、生々しい様子や凄まじさは聴くたびに胸が押しつぶされそうになりました。
震災から5か月後お連れ合いを自死により失くされた方、心の奥底に気持ちを押し隠して身内にも吐露できない方、仮設住宅に引きこもったままの方、など一人ひとりの「生きる」物語があります。家族の死をDNA鑑定で確認された方、検死に従事された医療者の過酷な現場のお話も伺いました。
死別・喪失体験とトラウマ(心的外傷)に生きる被災者の方々は、「3月11日の午後2時46分」-あの瞬間で時が止まったままです。それは「1月17日の午前5時46分」も同様です。被災者はもちろん、被災は免れたものの負い目を持つ人、生き残った故の罪責感
(Survivors’ Guilt)に苦しむ人、傷ついた被災者の悲しみを聴き自らも傷つく支援者など様々で、それぞれの傷跡は海ほどに深いものです。
被災地は今、長く厳しい冬の寒さと出口の見えない「絶望のトンネル」の只中にあります。抑うつ・アルコール依存・自殺を防ぐための「心のケア」、仮設などでの「孤独死」や支援者の燃え尽き症候群などへの対策も重要です。「よそ者にはできないこと」があるものの、「よそ者にしかできないこともある」と信じて、カリタス釜石の方々との協働を続けていきたいと思います。
海外での医療協力と被災者支援
ここで、JOCSの海外での働きと被災者支援とをつないで考えてみたいと思います。
JOCSは今年度、バングラデシュ・ネパール・パキスタン・タンザニアなどへの医療従事者(ワーカー)派遣と共に、6か国88名の保健医療スタッフへの奨学金支援やバングラデシュでの学校保健教育を行っています。
奇しくも3・11の時、ネパール短期ワーカーの楢戸健次郎医師が日本にいたために仙台の被災地に駆けつけました。楢戸さんは長く北海道での地域医療に従事した後、ネパールでの僻地医療に携わっている家庭医です。また釜石の看護チームの中心メンバーは、やはりネパールで医療奉仕を続ける(ワーカーとしてではないですが)JOCSの会員である山本貞子さんや元ワーカーの柴田恵子さんです。途上国での医療経験が日本の医療過疎地での活動に役立っている一例でしょう。患者を「待つ」のではなく患者のもとへ「赴く」。刻々と変化する事態や多様なニーズに臨機応変に対処する、などです。地域の人々への理解・配慮・感謝も途上国での経験から学んでいることと言えます。
ワーカーを派遣するタンザニアでも、パキスタンでも、ネパールでも、バングラデシュでも途上国における医療事情は極めて乏しく、人もモノもおカネも何もかもが困窮の状態にあります。電気やガス・水道など基本的なインフラの整わぬ上に、過酷な自然環境や政情不安などの問題にも直面します。「救えるはずの命が救えない」という実に葛藤に満ちた現場がそこにあります。祈りつつ、微かな希望を信じて人々の命と向き合う、人々の傍らに居続ける、それがワーカーや現地スタッフの日常です。
私たちの海外の活動地ではカトリックやキリスト教諸派に加えて、イスラム教やヒンズー教など宗教・宗派を超えた協働が進んでいます。異なる言葉や宗教、文化、生活習慣を持つ地域での活動経験も生かされたのではないでしょうか。それは被災地釜石でもカトリックや仏教とも自然な形で繋がっていった背景にあります。
ちなみにバングラデシュでは、昨年末寒波災害が到来し(日本では報道もされません)、JOCSは、現地団体の要請に基づいて、寒波被害の深刻な貧しい人々の救済のために支援金を送金しました。「過去30年間の世界の自然災害の被害の約9割はアジア地域に集中している」との統計があります。途上国では災害や紛争、そして貧困は「非日常」ではなく「日常」です。
被災地の避難所での出来事です。あるお年寄りが配給された2枚のパンを、「私は1枚しか要らないので」と隣の子どもに渡すと、その子はパンを兄弟で分け合いました。その光景は貧しくとも分かち合うアジアやアフリカの人々の姿と重なりました。そこに豊かさがあります。私たちは途上国の草の根の人々の営みに勇気づけられ、励まされて歩んできたのです。
世界各地で誰かが助けや支えを求めています。遠くのどこかでも、すぐ身近な所でも。私たちはこのような国難の時こそ、海外の苦難にある人々の痛みに寄り添いたいと思います。
「あなたたちができることは私たちにはできません。私たちができることはあなたたちにはできません。でも一緒になれば、神様のために何か美しいことができます」(マザー・テレサ)
私たちは違いを越えて力を合わせ、祈りを合わせたいと思います。「みんなで生きる」ために。そこに不思議な力が働くはずです。
私たちは人々の「静かなるSOS」と向き合いたいと思います。神様からの「声」として。そこから平和への道が始まります。
2012年を迎えました。
昨年春の東日本大震災のため、今なお多くの人々が痛みと悲しみ、不安を抱えつつ歩んでおられることでしょう。しかしまた、その中で復興を目指し、前に向かって進もうとしておられる方々もたくさんおられることと思います。こちらにも東北出身で、ご家族のこと、故郷のことで心を痛めている方々がおられます。主の平安とみ支えが被災地の皆さんの上に、復興に取り組む方々の上に豊かにありますように祈ります。
ウェスレー合同メソジスト教会は、日本からアメリカに移り住んだ人々によって始められた教会です。それゆえ、日本にいたとき以上に日本的なもの(行事・食べ物)に囲まれながら、教会生活を送っています。
年末、29・30日は、ウェスレー合同メソジスト教会恒例の餅つきでした。今年は3000パウンド(約1・36トン)のお餅が出来ました。この餅つきは、教会財政を支えることを目的としていますが、若い世代に日系アメリカ人の伝統・文化を伝えていくという役目も果たしています。
1月は1日に主日礼拝を守り、15日礼拝後は「お雑煮」を食べ、22日昼には、日語部の主催で英語部&日語部合同の「新年親睦会」が開催されます。新年親睦会は敬老会も兼ねており、80歳以上の教会員、教会関係者に招待状をお送りします。招待者数は約70名、昨年はそのうち47名!が新年親睦会に参加してくださいました。
こちらへ来てからパワフルな80代、90代の兄弟姉妹に何人もお会いしました。
餅つきのとき、鏡餅を誰よりも手早く形良く作りあげるのは、90歳のNさん。ほぼ一日中立ち仕事ですが、午前中から午後まで仕事をこなされます。Eさんは、昨年90歳の誕生日記念に「スカイダイビングに挑戦したい」と言い、さすがにドクターストップと家族の反対に合ったそうですが、代わりにジップクライミング(木と木の間に渡したロープにぶら下がって移動する)に初挑戦してこられました。
75歳で知らない土地を目指して旅立ったアブラハム、80歳で出エジプトの指導者として立ち上がったモーセ、90歳でイサクの母となったサラ、84歳で幼子の主イエスと出会い、人々に救い主の到来を告げたアンナ。聖書にも年を重ねた証し人、指導者が何人も登場してきますが、こちらへ来てから彼らの存在がより力強く、リアルな存在としてイメージできるようになりました。
現在90歳前後の兄弟姉妹たちは、日本で、アメリカで、シベリア等で、戦争を経験してこられました。空爆や砲撃から間一髪逃れた方、日本兵としてシベリアに抑留されていたという方、アメリカで日系人収容所に容れられた方、アメリカの日系人部隊に所属していたという方、広島の原爆でご家族を亡くしたという方にも出逢いました。多くの苦難、ご苦労を経て、今、明るく前向きに生きておられるその姿に、私たちも、神が備えてくださる未来を信じつつ、一歩を踏み出す力が与えられるように思います。
神によって立てられ、神の救いの御業に参与するために立てられたアブラハムたちも、順風満帆な、平穏な日々を歩んできた訳ではありませんでした。子孫が与えられないまま、高齢に達したアブラハムとサラ。もはや子どもは望めないとあきらめたこともありました。モーセはヘブライ人に同胞として受け入れてもらえず、挫折を抱え、エジプト人を殺したその責任を問われることを恐れて、遠いミディアンの地に逃れました。アンナは若くして夫に死に別れ、それから何十年もやもめとして、年を重ねてきました。彼らは皆、恐れや不安、あるいは挫折、苦難、悲しみを背負いつつ、生きてきました。しかし彼らには神への信仰があり、祈りがありました。
将来のことを考えると、ふと心が闇にとらわれそうになることも少なくないと思います。だからこそ祈ることを忘れず、人間の経験や知恵、可能性を超えて、神が示してくださる救いの御業を信じ、それを証しする者となりたいと思います。どんな状況の中でも、アブラハムのごとく新たな挑戦を忘れない者でありたいと願います。
新しい年も主が私たちに先立って道を示してくださいますように!
(ウェスレー合同メソジス ト教会日語部牧師
西之園路子)
第60回北海教区年頭修養会が、2012年1月9日~10日、シャトレーゼ・ガトーキングダムサッポロで開催され、全道各地から、また、道外からの客人も含め、総勢486名が集いました。
今年は札幌地区が企画・実施を担当し、『お話しください わたしたちは聴きます ~大震災から10ヵ月…~』というテーマを掲げ「聴くこと」を中心としたプログラムが行われました。昨年3月11日に起きた東日本大震災は、多くの人々に深い痛みと悲しみをもたらしました。北海道に住む私たちにとっても、あまりに大きなできごとでした。このことをどう受けとめ、教会の歩みをどう進めることができるのか、いまだ戸惑いと不安の中にあって、今、私たちがなすべきことは「聴くこと」であるとの思いから企画されたプログラムです。そして、2日間の修養会は、『聴くとき』、『分かち合いのとき』、『祈るとき』、『遣わされるとき』の4つの「とき」で構成されました。
一日目の『聴くとき』前半では、奥羽教区の村谷正人さん(教団大船渡教会牧師)、東北教区の片岡輝美さん(教団若松栄町教会信徒)を証言者として迎え、「被災地からの声」に耳を傾けました。村谷牧師は、被災地支援活動の大切な拠点となっている大船渡教会の働きと被災地の現状、北海教区との支援の関わり、ボランティアの若者たちとの交流や伝道、そこに働かれる主の恵みについて語ってくださいました。片岡さんは、「放射能からこどものいのちを守る会・会津」と「会津放射能情報センター」の代表として、福島原発による放射能汚染の現状と、こどもたちを放射能から守るための様々な取り組みについて語ってくださいました。
『聴くとき』後半は、山浦玄嗣さん(カトリック大船渡教会信徒・山浦医院院長)による「津波を超えて、闇から光へ」と題する講演が行われました。山浦さんは聖書をケセン語(気仙地方のことば)に翻訳されたことで知られていますが、時にケセン語を交えながら、大津波の壮絶な経験を語られました。しかし、その語り口は、戦中・戦後、「ヤソ」であったために理不尽な迫害を余儀なくされたこども時代を逞しく生き抜いた山浦さんならではの気概とユーモアに溢れたものでした。未曾有の大震災に遭ってなお、自分のことばで「福音」を伝えることに情熱を持ち、起こった全てのことを受け入れ、明るく元気に生きることを教えてくださった山浦さんの力強いことばに、私たちは光を見、感動と励ましを与えられました。
夕食後は『分かち合いのとき』として5つの部屋に分かれて、以下のようなナイトプログラムが催されました。
①山浦さんを囲んで~講演で聴けなかったことについて更に深める集い
②被災地から~村谷正人さん(前述)、後藤祈さん(札幌北部教会)、北口沙弥香さん(真駒内教会)からの支援活動報告
③放射能とどう向き合うか~片岡輝美さん(前述)、川原茂雄さん(北海道琴似工業高等学校教諭)、藤井創さん(酪農学園大学教員)による原発についてのパネル・ディスカッション
④聖書の学びと祈り~後宮敬爾さん(札幌北光教会牧師)による聖書研究
⑤年頭修養会60回の歩みを振り返る展示ブース
『祈るとき』で開始された修養会2日目。早天祈祷会では、1日目に与えられたことを静かに黙想し、小さなグループに分かれて共に祈りを合わせました。
プログラムの最後に、私たちは遣わされ、被災地の人々とつながり続けること、被災された方々を忘れないことを確認する『遣わされるとき』として、主イエスの名によってひとつとされる礼拝を捧げました。聖歌隊で讃美をするもの、分かち合いで互いに耳を傾け合うものに分かれ、全員が礼拝の備えのときを持ちました。礼拝では、こどもたちによる讃美や全道の仲間で結成された大聖歌隊の讃美が歌われるごとに、こどもたちが作った小さな蝋燭に火が灯され、光の輪が広がりました。参加者全員で、灯を見つめながら、被災地にある人々とつながっていくことを祈りました。
こどもたちもクラフトを製作して支援バザーで販売するなど、被災地とつながる活動を行いました。第60回という節目に全道各地の信仰の仲間と再会し、交わり、励まし合うだけでなく、おとなもこどもも共に平和の働き人となるために思いを合わせることができたことは大きな実りでした。
この修養会のために祈り、様々な形で支えてくださった多くの方々、そして、良い出会いと導きを与えてくださった主に感謝を捧げます。
(島田桂子報)
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