四月四日、教団会議室にて、教団救援対策本部の第一回会議が開催された。本救援対策本部は、三月一一日に発生した東日本大震災への対応のために、第一回常任常議員会(三月二二日開催)において、石橋秀雄議長を本部長として設けられたものである。
会議の冒頭において、本救援対策本部の構成員については未確定であることをふまえ、震災への具体的な対応については、当面災害発生時の初動対応を担う救援対策委員会が行い、本会議の本格的な活動が始まった段階で、同委員会の活動を引き継ぐことを確認した。
そこで、議事としては、まず委員について検討し、その結果、石橋秀雄、岡本知之、雲然俊美、北紀吉、佐久間文雄、長山信夫、大村栄、藤掛順一、および、日本キリスト教社会事業同盟と宣教協力学校協議会から各一名を委員候補者とし、第二回(臨時)常議員会(四月一八日開催)に提案することとした。
次に、震災発生後の対応について、救援対策委員会の活動報告のほか、「東日本大震災救援募金」(社会委員会)を呼びかけたこと、公式ホームページを立ち上げたこと、さらに、被災教会救援ボランティア・調査員を派遣したこと等が報告された。
また、甚大な被害を受けた地域を抱える奥羽・東北・関東の各教区からの被災状況の報告がなされた。特に、教会の被災状況、教会員・関係者の安否の報告について、各教区から寄せられた報告書などをもとに、時間をかけて確認をした。
その後、今後の対応について協議し、本救援対策本部は救援対応策を検討・決定し、内藤総幹事のもとで各幹事がその働きを担うことを確認した。そのため、教団事務局において情報収集、被災教会への支援、広報活動等を行うこととした。
他に、現地対策本部(仙台市)設置のこと、海外の諸教会(教団)からの支援申し出への対応のこと、教会再建等に向けての全国募金開始のこと等々を検討し、それらの内容を第二回(臨時)常議員会に提案することとした。
次回(第二回)の救援対策本部会議は、五月九~十日、教団会議室において開催する予定である。
主の御名を讃美いたします。
3月11日(金)14時46分頃、マグニチュード9.0を記録する巨大地震が東北地方太平洋沖で発生いたしました。地震とそれに伴う津波により、岩手・宮城・福島を中心に大きな被害が出ています。被害の全容は未だ明らかではありませんが、被災した教会のために、多くの資金が必要となる事は、まちがいありません。日本基督教団では地震直後から情報収集を始め、12日には救援対策委員会を設置、支援のための準備を整えはじめております。
けれども事は急を要します。教団社会委員会では、ただちに募金を開始いたします。祈りをもってご協力をいただきますよう、お願いを申し上げます。なお、本格的な募金は、常議員会が設置する委員会にて行なわれる予定です。
2011年3月14日
日本基督教団社会委員長 釜土達雄
記
◎募金期間 特に定めず
◎目標額 特に定めず
◎送金先 加入者名/日本基督教団社会委員会
◎郵便振替 00150-2-593699
(通信欄に「東日本大震災緊急救援募金」とお書きください。)
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
日本基督教団社会委員会(電話03-3202-0544)
苦渋の決断…福島教会礼拝堂撤去
常磐教会は、この地に赴任して6年目の武公子先生が牧する。週日は併設する保育園の働きを担っているが、地震直後、園児の家庭を回っていた同労者が突然亡くなった。地震のショックに加え、ライフラインが途絶えた上、原発事故が起り、不安と緊張の中で過ごす。27日になって、教会員と共に礼拝を捧げることが出来た。15名程の教会員がいるが、礼拝出席は7名程であった。保育園には、53名の園児がいるが、登園しているのは9名程である。
磐城教会には、この4月から、上竹裕子牧師が遣わされた。引っ越しが出来なかったために、スーツケース一つだけを持っての赴任である。役員の桜井姉が最低限の生活用品を準備して迎える。「この状況の中で良く赴任して下さいました」と感謝の言葉が語られたが、教会が抱える課題は大きい。
福島教会は地震による建物の被害が最も大きかった。ヴォーリスが設計し、文化財にも指定されている築102年の会堂だった。地震によって外壁のレンガが崩れ、ひびが入った。その数は、繰り返される余震の度に増えていった。補修するには多くの費用がかかる上、いつ倒れるか分からない建物を放置することは出来ない。教会堂を取り壊す苦渋の決断を下すことになった。現在は、会堂の隣にある伝道館にて礼拝を捧げている。同じく福島市内に建てられている福島新町教会もヴォーリスが建てた会堂で築84年と古く、建物の損傷は激しい。
東日本大震災の被害は津波によるものが大きく、いわき市、福島市とも町の中心部は、目に見える形での震災の爪痕はほとんどない。しかし、放射線という見えない敵が、人々に暗い影を落としている。
今回、支援物資を届けるために福島に赴いた松本周先生(聖学院大学)に同行し、いわき市の教会を支援している島田進先生(日立教会)に案内していただいた。両氏とも、教区の枠を超えて、物心両面において長期的に支援しつつ、伝道を進めて行くことが大切だとの認識を示した。
(島田惠吾報)
真理を求めた44年 大坪 章美 (札幌中央教会牧師)
私は、1942年、錦州(旧満州)で警察官の父と陸軍看護婦の母との間に生まれました。引き揚げ後は、長崎に住みました。
4月8日生まれの私は母から「仏縁がある」などと聞かされて育ち、人一倍宗教に関心を持っていました。中学の頃から無性に「人生のバックボーン」を求めるようになりました。
就職の時期になり私は或る大手メーカーに内定し、1966年初めて九州を出て大阪に赴任しました。ところが、1970年の結婚後間もなく、オイルショックを境に会社は大きなダメージを受け、私はそれこそ、土日も無いほど忙しくなりました。
その頃妻は母子家庭のような家を一人で守り、疲れ切ってしまい、ある時近所のご婦人から教会の礼拝に誘われたのを機に夫婦で出かけるようになりました。
教会に通い始めて、受洗の気持ちが湧いてきた頃、東京への転勤が決まり、家族5人は、東横線新丸子駅近くのマンションに移り住みました。転勤後の忙しさに我を忘れていた、ある晩、深酒して同僚に伴われて帰宅した私は、2階の玄関脇のコンクリートの階段を転げ落ちてしまったのです。命を落としてもおかしくない状況で、傷ひとつありませんでした。
私と妻は「神様の助けに違いない」と翌々日、最寄の新丸子教会を訪ね、その年1986年のクリスマスに野田市朗牧師より洗礼を授けられました。そして、気がついてみますと、私のバックボーンを求める旅も終わっていたのです。胸の空虚感は全く消え、毎日を満たされて過ごすことができました。
しかし、その頃、私はこの世のものの脆さに直面していました。大手メーカーの子会社の管理部門に勤務していた私は、殆ど毎日、午前0時をまわって帰宅するという、忙しい生活をしていました。そして、2002年の10月末、かつて無い腹痛に見舞われ、病院で胆嚢炎と診断され、1ヶ月半もの入院を余儀なくされたのです。
その翌年3月末、61才の定年で退職し、同年9月に、赤坂の法律事務所に職を得、法律事務と会計を担当しました。
それから3年余を経過した2006年の秋、翌年には三男も東京神学大学を卒業できることになり、私たち夫婦の、子どもたちへの責任も終わります。
その頃、受洗当時の野田市朗牧師のメッセージが、しきりに、耳に響いてくるのです。「教団には、無牧の教会が数多くある」と。今、私の進むべき道は、これしかないと、献身の思いを、新丸子教会の高橋博牧師に打ち明けました。
その後、多くの方々のお祈りに支えられて、2007年4月、東神大の学部3年に編入学を赦されました。
思えば、青雲の志をもって田舎を出てからまる40年が経っていました。紆余曲折の荒野の40年でありました。しかし、東神大で学ぶことの出来た喜びは何物にも替えがたいものでした。ようやく、魂の安住の地がカナンの地のように遠望できる思いがしたのです。
学部4年を修了して、大学院修士課程へ進むと同時に、母教会である新丸子教会を離れて、玉川教会へ出席させて頂いたことも、大きな恵みでありました。
そして、卒業後は札幌中央教会へ召されました。
残る人生、札幌中央教会の皆様と共に、主を証しする生活を送ることができることを心から喜んでいます。
「教団新報」4720号4面「教師検定試験公告」6、補教師「説教」「釈義」の課題テキスト①旧約 イザヤ書42章<1~14節>を<1~4節>にお詫びして訂正いたします。 教師検定委員会
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2025
The United Church of Christ in Japan






