第37総会期第1回宣教委員会が3月7日(月)~8日(火)、教団会議室において開催された。出席者は、張田眞、加藤幹夫、田中かおる、白戸清、望月修、具志堅篤、福井博文、米倉美佐男(伝道)、岸憲秀(教育)、釜土達雄(社会)、大三島義孝(担当幹事)、野村和正(担当幹事)。陪席者は、成松三千子(全国教会婦人会連合)、石井錦一(日本キリスト教保育所同盟)は欠席、古屋博規(全国教会幼稚園連絡会)、草深茂雄(担当職員)。
先ず、招集者の張田委員が使徒言行録16章6~10節を朗読、開会祈祷を捧げた。委員の自己紹介の後、互選により張田委員が委員長、書記に具志堅委員が選出された。
それから、今期委員会の在り方についての協議がなされた。その中で「宣教」と「伝道」の違いは何か、その定義についてのホットな議論が展開された。その後、前期委員会からの「申し送り事項」についての協議がなされた。前期委員会からの「申し送り事項」は、左記の6項目である。①社事同、キ保同との連携強化。②「障がい」を考える小委員会、靖国・天皇制問題小委員会の継続。③牧師とその家族のメンタルケアの必要とセクションの明確化。④「青年伝道」担当幹事の必要性。⑤幼稚園、保育園問題との関係。⑥宣教方策会議の開催。
「牧師とその家族のメンタルケアの必要性」については本来、教師委員会が扱う事柄ではとの声も上がったが、将来的にはそのようになることを希望しつつ、今期は宣教委員会のもとで取り組むことが承認された。「障がいを考える小委員会」の委員長は加藤委員が選任された。
宣教方策会議は来年3月開催を目指し準備を進める。1970年代から「宣教」が様々な社会問題を担うことと理解されてきた。これまでの在り方に評価と反省を加え、教会本来の「宣教」の在り方を求め、常議員会、伝道方策検討委員会、宣教研究所との連携を密にして開催する方向性を確認した。
釜土委員の閉会祈祷で会を閉じた。次回委員会は6月30日~7月1日の予定。
(具志堅篤報)
4日目、福島教会。訪ねた時、既に礼拝堂は更地になっていた。市の文化財に指定される程の、美しい煉瓦作りで、蔦の教会として市民にも愛されていたが、倒壊の危険に、いかんともしがたし。
堀江知己教師は、赴任2年目、厳密には震災時は1年目。絵心のある師が、ほぼ書き上げていたという旧会堂の絵を見せて貰う。写真と見まごうばかり、そして、写真よりも色合いが美しい。100年愛された会堂は、教会員の思い出と、この絵の中に生きることになる。
3日目に訪ねた岩沼教会も、歴史を感じさせ風格のある石造りの会堂壁面が崩落の危機、特に、塔の部分が見るからに危険だ。敷地の奧には付属幼稚園があり、園児もこの側を通って行く。早急な手当が必要となっていた。
キリスト教が浸透し切れていないと思われがちな東北の地には、実は、100年の歴史を刻む教会が少なくない。必ずしも大人数の礼拝ではなくとも、孤島の灯台のように、その役割を果たしてきた。この地震のためにその働きを絶えさせてはならないと痛感する。
信夫教会を訪ね塚本一正師と祈りを合わせる。福島市内は地震以上に、放射能への不安が、町を支配していると聞く。別の情報では、県境には自衛隊が駐屯し、脱出しようとする者を押し留めているというデマが、一時、中学生の間に流れたそうだ。悪質なデマだが、これが流布する程の不安があったことは事実なのだ。
福島新町教会については、前号に記した。
福島市内を出、宿に入って間もなく、場所によって震度6強を記録した激しい余震。心配になり、翌日福島新町教会の瀧山勝子教師に電話すると、亀裂が一層大きくなったとのこと。
5日目、牧師館が居住不能となった郡山教会を経て、磐越高速を通り、いわきに向かう。数日後、余震による山崩れが、この道路を塞ぐ様子をテレビ画面で見ることになるとは。
磐城教会は、隣接の幼稚園が、学校法人化されたものの、教会と一体の働きをしている。震災に当たっても、上竹師の前任地藤沢教会やその近隣教会などから送られて来た救援物資を、幼稚園の車と人手で、物資不足勝ちな海岸部の病院や避難所に送っている。私たちの訪問時にも、ホーリネス教団のワゴン車が、物資とボランティアを載せて到着した。
福島及びいわき市内の教会については、前号に関連記事掲載。訪問後、いわき地方には、震度6強級の余震が2度起こった。
最後の訪問地、郡山教会から福島純雄教師が転任したばかりの筑波学園教会を訪ね、帰路についた。
この他にも、塩竃東教会、仙台東一番町などを訪ねたが、目立った被害はない。
この日の朝、コース変更が最早不可能になってから、栃木県内の諸教会、またアジア学院の被害が大きいことを知った。
茨城県、千葉県等関東の諸教会被害状況は、後日お伝えしたい。
さて、初日、盛岡近郊に宿を取った。古びた宿は、20代の青年で満員。津波被災地で働く労働者だと聞く。海岸部までは山道を車で2時間は走ることになる。朝は5時起き、往復だけで4時間以上。仕事とは言え、頭が下がる。
3泊目の宿は、仙台市内から遠く離れた遠刈田温泉(とおがったと読むが、遠かったに由来するとも言う)の更に奥のホテル。「南三陸町御一行様」と一緒になる。但し、一行は食事も風呂も別扱い。そして、寝室は大広間と聞き心が痛む。折角避難所から逃れられたのに。それでもこの人々にとって、束の間の休息の時なのだろう。
部屋を替わって上げたいと思う。もっとも、当方も布団3組で畳が見えなくなる小部屋だが。
どの宿でも、長期滞在者があると聞いた。お金さえあればハワイにだって住めると言うつぶやきも聞いた。異常な生活が長引き、被災者同士の心にも亀裂が入るのを恐れる。
被災教会支援では、全教団一つ思いで、なすべきことを果たしたいものだ。
地域復興のために働く教会 主に用いられるならば
前号に記したように、4月4~8日(月~金)、東海教区小出望議長、宮本義弘伝道委員長(教団宣教研究所委員長)による東日本大震災被災教会訪問に、教団新報も同行した。
当時、東京ではガソリン事情はほぼ快復していた。だから出発できたのだが、被災地、特に福島県内では未だ深刻な不足状態にあった。出発前日、福島在住の知人に様子を尋ねると、朝3時に起きて3時間並び、やっと20リットル入れて貰えるとのこと。車社会の福島では、ガソリンなしには通勤もままならず、日常生活が困難になる。この時点で被災から20日以上、このような過酷な状況が続いていた。「福島県内では給油しないで」とまで言われた。
宮本師運転するハイブリッド車でも、この点が不安だった。満タンで出発したのは勿論、非常用に20ℓ缶を積んでいたが、現地での給油に、全く支障はなく、20ℓ缶も先々の教会で不要とされ、結局持ち帰った。1日で状況が変化すると聞いた通りだ。しかし、一方では、缶を幾つも積み込む車を見かけた。場所によるのだ。また、コンビニにはおにぎりが見当たらない。陳列棚の半分以上が空の所もあった。
4泊5日を過ごすためには、自分自身の身の回り品が多く、ために救援物資を積む余地はあまりない。被災地に空手で出掛けることに、正直躊躇を覚えた。フットワークの点では非能率でも、宿は4泊とも被災地から遠く離れた所に取った。現地の物資を消費したくない思いからだ。
現地で消費することが経済復興に繋がるという考え方もあるが、それは時間的にもう少し先のことだ。次元が違う。朝夕の食事は宿で十分取れたが、昼は菓子パンなどで過ごし、一度は、宮本師持参の山歩き用器具で湯を沸かし、カップラーメンをいただいた。
空手と記したが、この訪問の目的は、奥羽・東北両教区に献金を届け、一つでも多くの被災教会を訪ね、共に祈ることにある。おこがましい言い方をすれば、み言葉と祈りとを持参したのだ。
計18教会を訪ね、どこでも、小出議長が決まって詩編116編を朗読し祈った。祈りは旅程に差し障りが出る程に長くなってしまう。勿論、その前に、被災時の様子などを聞く、1時間以上も、堰を切ったように話が止まない人が多い。思いが一杯に詰まっているのだ。本当なら一晩中でも話し足りないのだろう。
通俗的な表現だが、御言葉と祈りとを持参したつもりが、持参したよりも多くのものをいただいて帰路につくこととなった。
以下に、前号からの諸教会訪問の続きを記す。
礼拝堂・牧師館倒壊の危険がある千厩教会を訪ねたところ、その建物内に柳沼赦羊子(やぎぬまさよこ)牧師と2人の子どもの姿。裏山に亀裂が入り牧師館は近隣に移転、当然、付設の学習塾も出来ない。退避勧告が出され、礼拝は信徒宅で守っているとの報告は後日聞いた。津波が襲った地からは遠く離れている内陸部の被害も大きい。
3日目、宮城県に入り、陸前古川教会に寄る。03年の宮城県北部地震による被災と会堂再建については、新報で何度か取材した。この度の被害は比較的軽微だが、元々地盤の弱い土地らしく液状化の兆候が見られ、余震続く中で今後に楽観は出来ない。
再び三陸海岸に接近。床下浸水した石巻栄光教会はは、被災直後から、ボランティアセンター、援助物資の基地として大いに用いられた。公的避難所の欠けを補うことが出来たことなど、小鮒實教師から詳しく聞いた。直ぐ隣の公的避難所では手足を伸ばすことさえ困難、学校に比べたらはるかに小さな教会が、何人かの高齢の方に、手足を伸ばして休む場所を提供できた。このことに特別象徴的な意味があるように思わされた。小さく無力に見える教会も、主に用いていただければ、大きなご用を果たすことが出来る。
石巻山城町教会は、牧師の交代期にあった。鈴木淳一・裵善姫(ペーソンヒ)教師夫妻は、出先で地震に遭遇、教会へと帰り道を急いだが、道が瓦礫や出水で塞がれ、辿り着くことができなかった。数日の避難所生活を経て接近できる場所を探し、腰まで海水に浸かりながら、漸く帰還したと聞く。
後任の東京神学大学新卒の関川祐一郎師着任後も、イースターまでは留まり、一緒に働くと言う。(…石巻の両教会については、前号1面参照)。
後述の磐城教会も、4月から上竹裕子教師が赴任した。他にも同様の例や、赴任出来ず待機という例がある。牧師交替期である3月に起きた異変だから、不思議には当たらないが、赴任教師も大変な苦労を負うことになる。
ここに詳細を記すことは憚られるが、被災した教師の中には、教会の行く末を考えると不安に脅える人もある。誰もこの教師を責めることは出来ない。むしろ、皆でこの重荷を担うことをしなくてはならない。
話は遡るが、前号に記した鹿島栄光教会の佐々木茂教師は、訪問した時に、田舎の小さい教会の灯火を守る仕事は、最後のご奉公として老牧師がなすべきという説を展開した。地方の小規模教会こそ、牧会に経験が要求される、また、年金が付き老後の最低の保障がある人がふさわしいとし、机の上の学びも続けなければならない若い人に、過重な労苦を押し付けるのは、悪い制度・慣習だと言い切った。一つの見解だと思う。
宮城野愛泉教会(國津信一・里咲教師)は、被害は殆どない。被災直後、近隣に大規模な一時避難所が設けられたが、やがて満員状態となり、あぶれて帰宅難民となった人々への炊き出しを行い、一時休憩所となった次第を聞いた。
「教団新報」今号を4722・23合併号とし、次号4724号は、6月4日に発行します。 総幹事 内藤留幸
臨時常議員会の中で、各教区議長または代理者により、東日本大震災関連事項に絞って、教区報告が行われた。特に被災3教区報告には時間が割かれた。
奥羽教区邑原宗男議長は、宮古、新生釜石、千厩、大船渡の4教会の被害状況や近隣地域への救援活動を主に、詳細に報告した。宮古は教会・牧師館一階が水没したものの、盛岡YMCAやカナンの園職員により掃除がなされ、逆に近隣地区の救援基地として用いられていることが、新生釜石については、ボランティア活動によってヘドロと瓦礫に埋まった礼拝堂の片付けが行われたこと、淀川キリスト教病院から医師・看護師の応援が与えられ、地域の方々の相談に与っていること、北海教区からの応援、教団議長はじめ東京神学大学生のボランティアのことなどが詳しく述べられた。また、教区の調整を通さない一方的なボランティア活動による混雑などにも触れられた。
千厩は礼拝堂・牧師館が危険建物とされ、避難先に借家を確保したことなど、厳しい現状が報告された。 大船渡は高台にあり被害は軽微、支援物資が配布され地域に喜ばれていること、埼玉地区による炊き出しなどの支援活動が行われたことが報告された。
また、人的な被害(行方不明)が出た内丸教会や教会員の被害のことが覚えられた。
東北教区は、高橋和人議長により、29教会の被害状況が一覧表で説明され、大きな被害を受けた教会が多いことが示された。原発事故の被害を受けた地域、教会についても、表とは別に説明された。人的な被害では、判明している4教会4名のことが報告された。また、震災直後の初動から、現在時点に至る教区の取り組みが子細に報告された。教区総会への提案内容として、「教区活動を縮小・凍結して総力を挙げてこれにあたる」と、基本姿勢が記されており、教区の被害の甚大さと、これに取り組む悲壮感が伝わった。
また、東北教区教会救援復興委員会の設置に関して、その目的に「被災地域の教会、および教区全体がみ言葉による再生、復興の拠点となること」と記されていることが印象的だった。
関東教区では、22教会・団体の被災状況が上げられ、疋田國磨呂議長より、詳しく説明された。マスコミで取り上げられ、ある程度被害実態の想像がつく海岸部のみならず、茨城・群馬などの内陸部の被害が大きいことを知らされた。
また被災支援委員会の立ち上げや、これまでの活動内容についても説明がなされた。
大船渡教会で埼玉地区が主体となり「無料バザー」を開催したことが、焼き肉、焼きそば、フランクフルトと、品目まで紹介された。寒い土地で心まで寒くなっている人に、暖かい思いを届けたということだ。
他の諸教区は、限られた報告時間の中で、これまでどのように取り組みを行ったか、また、今後どのような姿勢で臨もうとしているかを述べた。その思い、覚悟が伝わった。被災教会の励ましとなるだろう。
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