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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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ルカによる福音書6・1~11

2020年8月3日

6:1 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。
6:2 ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。
6:3 イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
6:4 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」
6:5 そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

2020年8月2日

14:10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
14:11 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」
14:12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。
14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。
14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。
14:16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。
14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
14:18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
14:19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
14:20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。
14:21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。
14:22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。
14:23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

2020年8月1日

新型コロナウイルス感染症の影響は大きい。社会生活や経済活動のみならず、あらゆる分野での対応が求められ、ウィズコロナの日常を過ごすための「新しい生活様式」と、「行動変容」が提唱されている。

そして、教会もまた否応無しに、アフターコロナの社会(コロナ禍を経験した社会のこと。コロナ禍の収束・終息後ということではない)における新たな伝道のあり方が求められている。

今、いずこの教会でもウイルス感染防止の対策がなされていることと思うが、あらためて認識したことは、ビフォーコロナにおいては、「三密の伝道」が主であったということである。教会での伝道集会におさそいする(密閉)。できるだけ多くの方に来ていただく(密集)。きわめて近い距離で大きな声で賛美をする。時には食事会をもつ(密接)。このようなことを〝自粛〟しなければならない今、「新しい伝道様式」が必要とされている。

すでに、オンラインや動画配信などの「新しい礼拝様式」によって、新たな恵みを与えられているとの声も聞いている。同様に、 例えば、これまでのような「ひざつき合わせての伝道・牧会」と共に、オンラインによる伝道・牧会といったことがなされることの意義も大きい。

アフターコロナにおける「新しい信仰様式」の課題として、祈りつつ模索している。

(教団総会書記 雲然俊美)

はじめにイエス・キリストに興味を持ったのは映画『ベン・ハー』を見たときだった。自ら「灰スクール」だったと語る中高時代、暇さえあれば映画館に通い、出会った一本だった。

高校1年生の冬、親戚に誘われて近くの教会へ行った。伝道集会があり、小出忍牧師の「父の愛」と題した説教が心に突き刺さった。12歳の時に無菌性髄膜炎に罹患して一カ月入院した。生きる意味、勉強する意味について悩み、自室の前にバリケードを作り、檄文を書いて立てこもったこともあった。問い続けてきた心の闇に一筋の光が差した気がした。通っていた米子教会で信田智伝道師から『4つの法則』を示され、「自分のために死んでくださったお方がいるのか」と深く感動した。

大学に入り、友人たちと遊びもしたが心の平安を得られず、その年のクリスマスに米子教会で加藤俊行牧師より受洗した。それからは、キリスト者学生会で熱心にキャンパス伝道に励んだ。所属する混声合唱部などで伝道トラクトを配ったが、誰も教会に来てくれない。一人だけ教会に足を運んでくれたのが現在の妻である。卒業と同時に結婚、4人の娘に恵まれ、それぞれがクリスチャンの夫と結婚した。

医師になってほどなく、大阪の病院に勤めたが、激務に「燃え尽き症候群」になり、妻の地元福岡にある栄光病院へ。忙しい仕事の傍ら、家族で教会に通うことを大切にしてきた。娘たちが幼い時には、妻と共に近所の子どもを集めて土曜学校を開いていたこともある。

苦しんだ高校時代の「一度しかない人生、何か人の役に立ちたい」という思いから医師になった。だから、一人ひとりの患者と向き合う時「この人は神が与えてくださった人だ」という「祈り心」をもって、今日も聴診器を手に取る。

鳥取県米子市出身、福岡中部教会員、社会医療法人栄光会理事長

《若い日の安三》

桜美林学園は来年2021年に創立100周年を迎える。100年前の1921年、桜美林学園はどのようにして誕生したのか、その経緯をたどりながら創立者である「夢追い人、清水安三」の人物像を紹介したいと思う。

清水安三は1891年、琵琶湖の西岸、滋賀県高浜町の比較的裕福な半農半商の家に次男として生まれた。しかし、長男の放蕩が原因で実家が没落し、安三は経済的に困窮した少年時代を過ごすことになる。旧制膳所中学(現在の県立膳所高校)に入学するものの、貧しい家庭環境のため学業に集中できず、安三の言葉を借りると“いつもクラスの中で最後から数えたほうが早い順序だった”。そうした安三であったが大きな転換期が訪れる。当時滋賀商業学校の英語教師に赴任したばかりのメルリ・ヴォーリス(1880〜1964)との出会いである。安三はヴォーリスの招きでバイブルクラスに参加し、そこで初めてキリスト教信仰に触れたのであった。ヴォーリスの熱い信仰の影響で、安三は1908年に大津組合教会で洗礼を受け、さらには牧会者としての志を立て、学費を必要としない同志社大学神学部へと進学するのであった。

同志社時代、安三は大きな決断をする。唐招提寺を訪れた際、開祖鑑真和尚の布教への熱意に打たれ、また義和団事件で殉教した米国人宣教師ホレス・ピトキンの逸話を耳にし、自分も宣教師となって中国へ渡ろうと誓うのである。

《中国へ派遣される》

組合教会最初の宣教師として安三は中国へ派遣されることになったが、出発直前、彼は大阪毎日新聞の長谷川如是閑を前に“自分は中国に行って20歳代で小学校、30歳代で中学校、40歳代で高等学校、そして50歳代で大学を建てるつもりです”と公言し、“ホラを吹いたと言うならそれで結構。夢を持って海を渡る”と熱く語った。それがそのまま翌日の新聞に記載されたと聞く。この夢がその後、見事に結実するとは一体誰が想像出来たであろうか。まさしく「夢を見る人、清水安三」の誕生である。

1917年6月、安三は中国の奉天(瀋陽)に着任したが、2年後、“血と汗をぶち込んで”中国の土になる覚悟を決め、妻の清水美穂と二人で北京に移り住む。同年1919年秋、中国北部一帯を未曾有の大旱魃が襲った。この大災害に対して、欧米の宣教団体はいち早く救援活動に乗り出したが、安三も遅れずに立ち上がる。財界の大物渋沢栄一に直訴し、送られてきた義援金をもとに妻や中国の同志と共に大八車を引いて華北部の農村を巡り、飢えに苦しむ子どもたち799名を集め、北京の朝陽門外に急設した救済施設に保護するのだった。旱魃がおさまった翌年、安三は子どもたち全員を故郷へ送り届けるのだが、不幸にして親を失った子どもには養子先を見つけ、最後の一人まで救い続けたのであった。

《北京 崇貞学園での活動》

朝陽門外一帯は、当時、貧困層が暮らす中国最大のスラム地域であり、若い娘たちがわずかな金銭で身売りされる日常を目にした安三は、少女たちを救う道は教育以外にないと強い思いを抱いて、いわゆる読み書きとそろばん、つまり識字教育を行い、同時に自立のための技芸を習得させる無償の学校である「崇貞(ツオンチェン)工読学校」を設立する。1921年のことであった。この年をして桜美林学園の誕生と我々は考えている。その後、工読学校は「崇貞学園」と名称を変え、徐々に教育施設を整備し、1945年の敗戦までひたすら教育活動を続けるのであった。その間、1924年から3年間、安三夫婦は大原孫三郎の援助で渡米し、オベリン大学(Oberlin College)に留学。BDの学位を取得した。

崇貞学園は1939年に日本人部を併設し、文科省の認可を受けた高等女学校が開設されたのである。すると、たちまち日本国内のみならず、植民地であった朝鮮半島から多くの生徒が集まり、中国人、朝鮮人、日本人がともに学ぶ、所謂、「グローバルな学校」として注目を浴びるようになる。安三はとりわけ朝鮮人生徒に対して、朝鮮民族の誇りを失わないようにと心を配り、創始改名を嫌い朝鮮名で生徒を呼び続けたのである。勿論、当局からの非難と嫌がらせは覚悟の上のことであった。こうした安三の献身的な働きを北京の人々は高く評価し、何時しか「北京の聖者」と呼ぶようになっていった。

安三は自らの教育の理念を見事に一句で表現している。「学而人事」である、「学而人事」とはまさに「学ぶことは自分のためではなく隣人のためになすべきものだ」という教えである。つまり、学園は「隣人愛を体現する人」の育成のために存在するということである。この教えは桜美林学園の建学の精神として今もしっかりと受け継がれている。

《桜美林学園設立》

1945年、戦争が終結した年、「崇貞学園」は中国政府に接収され、安三もすべてを失いトランク一つで家族と共に帰国の途に就く。その時安三は54歳。引退してもおかしくない年齢であったが、彼はそこで終わらない。彼には次なる夢があったのだ。その夢とは“敗戦の日本に必要なのは、平和を愛する世代を育てる学校の設立”である。

ある日、焼け跡が広がる東京神田を歩いていると、偶然にも路上で賀川豊彦と出会う。賀川は安三の学校設立の熱い思いを聞き、GHQから管理を任されていた東京町田にある軍需工場の職員寮を紹介するのであった。安三は早速、そこに桜美林学園高等女学校(旧制)を創立する。1946年5月28日、帰国してから僅か数か月の出来事であった。1947年に桜美林中学(共学)、翌年には桜美林高校(共学)が開設される。野球が大好きな安三は、早々と野球部を設立し“いずれ甲子園で優勝する”と豪語するのであったが、“またいつものホラだ”と周囲は眉をひそめる。しかし、桜美林高校野球部は1976年、夏の甲子園大会に初出場し、なんと決勝戦まで勝ち進みPL学園を逆転で負かし初優勝を飾ったのである。安三はその時の心境を歌であらわした。“夢を見よ。夢は必ず成なるものぞ。うそとおもわば甲子園に聴け” そして、ついに1966年、生涯の夢であった4年制大学の創立を成し遂げるのである。桜美林大学は現在、7学群の学士過程と7つの大学院研究科を合わせると約1万人の学生が学ぶ総合大学へと成長した。

この間、安三は常に学校経営の先頭に立ち、学長、学園長を歴任、1988年1月17日、日曜日の説教を終え、“疲れた”とつぶやいて横になり静かに息を引き取った。96歳の生涯であった。清水安三は大きな夢を抱き、それを実現する稀代の教育者・宗教家であった。三谷高康(桜美林大学)

(Kyodan Newsletterより)

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