インスタグラムアイコンツイッターアイコンyoutubeアイコンメールアイコン
日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
kobeya

やっぱり「愛」でしょ ――「愛の讃歌」(Ⅰコリント書13章)――

2025年7月1日

やっぱり「愛」でしょ
――「愛の讃歌」(Ⅰコリント書13章)――

13だが、今や信仰と希望と愛、これら三つが残る。
だが、これらのうちで最も大いなるものは愛である。
(コリントの信徒への手紙一 13章13節[私訳])

 Ⅰコリント書13章(1−13節)は「愛の讃歌」と呼ばれる有名な聖書箇所です。このテクストにおいて、パウロは愛とはどういうものであるのかを説き、愛こそが永遠に存続する最も大いなるものであると声高らかに謳っています。
 1−3節は異言、天使の言葉、預言、神秘、知識などのカリスマ(賜物)よりも愛が大切であり、山を動かすほどの信仰、全財産の喜捨、そして殉教の死さえも、愛がなければ無に等しいと述べるほどに愛を讃美しています。
 4−7節は愛の属性を列挙しています。愛とは寛容であり、慈悲深く、妬まず、自慢せず、高ぶらず、見苦しくなく(礼を失せず)、自己満足せず、怒らず、人の悪事を数え上げず、不正を喜ばず、真実を喜び、全てを覆い、全てを信じ、全てを望み、全てを耐えるものだと説き、愛の素晴らしさを讃えています。
 8−13節はあらゆるものはやがて廃れるとも、愛は永遠に倒れることはないと語っています。ここでパウロは仮初めの世界である現世で人間が見ているものは部分的、限定的で不完全なものでしかなく、それがやがて到来する本来の世界である来世(神の国)では全てが詳らかになると述べ、そのうえで――冒頭に引用したように――「信・望・愛」(信仰・希望・愛)は永遠に存続し、それらのうちで最も大いなるものは愛であるという最高の讃辞を愛に贈っています。
 先月に続けて、今月の聖書の言葉もまた、担当者が教団の若い同僚に好きな聖書箇所を訊いて決めたとのことですが、その背後には「マダガスカルの、まだ少女なのに母になった子、飢えと女の生/性の短い記事」を読み、胸が締めつけられたことから、愛は「マダガスカルの木の枝と葉を煮出した汁で生きる少女と赤ん坊に何をしてくれるのだろうか」と自問しつつ、現実がいかに酷(非道)いものであったとしても、あるいは現実がこれほど酷(非道)いからこそ、「やっぱり愛でしょ」と愛を信じ、愛に希望を託すほかないとの思いがあると感じました。
 担当者が胸を締めつけられたマダガスカルの少女の記事(朝日新聞デジタル版with Planet story「母体と新たな命を守る:マダガスカル、気候変動と人道危機の中で」(https://www.asahi.com/withplanet/article/15702989)を読み、日本社会でぬくぬくと生きている自分にいったい何が語れるというのかと煩悶せざるを得ないのですが、担当者や若い教団の職員が愛を信じ、愛に希望を託す姿にも突き動かされるようにして、Iコリント書13章を再読しました。すると、愛の讃歌の第二段落の4−7節で愛の属性を語るパウロの表現形式が、愛の有する力強さ(ダイナミズム)を生き生きと表現していることに気づきました。すなわち、4−7節でパウロは7種類の肯定命題と8種類の否定命題の合計15の命題によって、愛とはいったいどういうものであるのかという愛の属性を列挙しているのですが、そこでは名詞(抽象名詞)ではなく、動詞(分詞)が使われているということに気づいたということです。つまり、パウロにとって、愛とは静的(スタティック)なものではなく、動的(ダイナミック)なものだということです。パウロにとって、愛とは抽象的な概念などではなく、常に行動として立ち現れるものだからです。
 マダガスカルの少女の記事を読み、そしてそこからIコリント書13章の愛の讃歌に思いを至らせ、居ても立ってもいられないような思いに突き動かされ、担当者とその若い同僚が「やっぱり愛でしょ」と、愛を信じ、愛に望みを託す姿こそが愛のダイナミズムであり、日本キリスト教団の働きを支えているのだと実感します。そして、このように愛を生きようとする姿に接するとき、パウロが愛を信仰や希望を超える最も大いなるものであると断言する意味もまた了解できるのです。すなわち、愛が信仰や希望よりも大いなるものであるのは、愛が信仰や希望を包摂するというだけにとどまるものではなく(Ⅰコリント13章7節)、信仰と希望が自分の利益のためのものであるのに対して、愛はその恩恵を他者に及ぼすものだからです(ジャン・カルヴァン)。つまり、信仰や希望が自分の幸福を求めるものである限りにおいて、利己的なものになり、――最近流行りの「・・・ファースト」のように――自分の内側に閉じこもってしまう危険性があるのに対して、愛は他者の幸福を求めるものであるゆえに、利他的なものであり、――イエスが示した「隣人愛」のように――自分の外に開かれる無限の可能性を有しているからです。
 しかし、この世界には「直接的暴力・構造的暴力・文化的暴力」が満ちており、「直接的平和・構造的平和・文化的平和」など遥かに遠い現実です。そして、このような世界の現実を作り出してきたのはキリスト教の国々であり、先のマダガスカルの少女と赤ん坊はキリスト教が引き起こしてきた「直接的暴力・構造的暴力・文化的暴力」によって苦しめられていると言わざるを得ません。愛は「マダガスカルの木の枝と葉を煮出した汁で生きる少女と赤ん坊に何をしてくれるのだろうか」という問いはとてつもなく大きな問いです。キリスト教と言えば「ルサンチマン」(怨嗟)や「戦争」が連想されると思いますが、キリスト教にどっぷりと浸かってこの渡世を生きている限りは、先の担当者やその同僚のように、愚直に愛を信じ、愛に希望を託し、身をもって愛をひとつひとつ体現していくことによって、キリスト教と言えば「やっぱり愛でしょ」と言えるように、そしてそう言ってもらえるようになりたいと願う今日この頃です。
(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン/宗利淳一)

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

パニックの中の頼りは?

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。
詩編46篇2-4節

台湾基督長老教会宣教師
日本基督教団北海教区
ディヴァン・スクルマン

皆さん、主の平安がありますように、平安。こんにちは。わたしは、台湾基督長老教会の牧師、台湾原住民族―ブヌン族のディヴァン・スクルマンです。現在は日本キリスト教団北海教区で宣教活動をしています。いま、私がいる場所は台湾基督長老教会中布中会の大山教会です。この教会は、私が洗礼を受けた教会でもあります。今日、私は大山教会の礼拝堂でお話します。

2003年の3月に私は中国を訪れ、3月中旬に原因不明の伝染病が蔓延していると耳にしました。4月に台湾に戻ったとき、気管支炎で咳が止まらず、台湾への入国ができないかもしれないと思っていました。というのは、当時、台湾の国際空港では入国者に対し、発熱や咳などの症状がないか、徹底的な検査を行っていました。幸いにも検査はスムーズに進みました。後に、この伝染病がSARSと呼ばれていたことを知りました。

その後、20201月、台湾が「新型コロナウイルス」の流行拡大防止策を開始したというニュースを聞いた時、私は心の中で恐怖を感じました。SARSの流行の嵐を経験したためか、無意識のうちに恐怖を感じていたのかもしれません。次第に、世界のどの国や地域でも、「新型コロナウイルス」の流行に注目が集まり、多くのパニックと不安を引き起こしました。多くの人々にとって、生活に不便をもたらしただけでなく、人と人の間に多くの壁を作り出しました、普段の人との関わり方もこの流行によって変化し始めました。

不安な状況の中で、私は聖書の詩編に励ましとなる詩がたくさんあることを思い出し、詩編を読み、祈りとして用いるようになりました。ある日、私は台湾の賛美歌を聞いて感動しました。曲名は「あなたの能力を全く疑っていません」、歌詞の意味は「全ての出来ことは神様が成し遂げます。」という歌です。私はこの歌に励まされました。賛美歌を聴き、神を賛美するたびに、賛美を通して神が私の心の不安という大きな石を取り除いてくださるのを感じました。目の前の暗闇や平坦でない道に心が閉ざされることはなくなり、賛美を通して神が与えてくださる平安を私は受け取ることができました。

人類にとって、パニックは完全な絶望ではなく、再び目覚める機会だと思うのです。自然災害や人為的な災害によってパニックになったり絶望したりする必要はありません。神は人々に再び目覚める機会を与えてくださいます。

詩編46篇2-4節にはこう記されています。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」詩編の作者は、どんな混乱や危機にあっても、神の民が共にいてくれると固く信じていました。詩編の作者の揺るぎない信仰体験は、私たちにとって本当に大きな助けとなります。

この詩編46篇は宗教改革者マルティン・ルターが愛した詩として知られています。ルターが作った讃美歌として知られている「神はわが砦」のもとになった詩編です。この詩編で歌われているように、神はわが砦という主への信仰を告白します。ルターはまさに力の源である主と出会い、この主が砦となってくださるというこの詩編の結びの言葉を心に留め、神によって力を与えられて宗教改革をしたのです。私たちも、この力の源の主と出会うならば、どのような絶望的な中にあっても、主により頼んで平安を得ることができるのです。

パニックに直面した時、私たちは詩編の詩人が信仰に頼ったことから学び、謙虚に神の前に祈り、神が慈悲を示し、私たちに知恵、勇気、信仰、愛を与えてくださるように求めましょう。災害に直面して無力な信者にとって、神に頼るときに私たちが持つべき信仰の表現だからです。

私たちは、自分にできることに最善を尽くします。能力を超えたことは神に信頼します。慌てたり、悪いことに打ちのめされたりしないでください。なぜなら、神は私たちの頼りであり、希望だからです。どんな困難の中でも、神はあなたと共におられます。どうか今日、神に信頼し、安心して歩み出していきましょう。これから私はブヌン語の祈りをします。

祈り:私たちを愛しておられる主よ、あなたを感謝します。あなたの御ことばを受け取るすべての人に祝福をお与えてください。あなたの御ことばが私たちの力と助けとなりますように。あなたの平安が永遠に私たちと共にありますように。アーメン。

2025年6月30日

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

2025年6月29日

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

PageTOP
日本基督教団 
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2025
The United Church of Christ in Japan