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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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ヨハネによる福音書21・20~25

2022年4月23日
ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

確かな約束 松下道成
コリントの信徒への手紙一13章13節


Mさんのこと

 Mさんのことから、主の復活のメッセージを語りたい。その年の棕櫚の主日の礼拝にMさんは歩いて来ることは出来ず、車椅子で来られた。「辛いようでしたら、無理なさらないで下さい」とお伝えすると「いえ、来週も、再来週も来るつもりですが」と、そんなことは当たり前ではないかという雰囲気で答えられた。

 礼拝、聖書研究や祈祷会に欠かさず出席し、30年近く教会役員をされた。教会員を訪問し、障がいのある子どもの送迎ボランティアもされていた。企業の退職後、特別養護施設の施設長を何年もされた。

 辛そうなMさんに何人もが声をかけられていた。教会の方が付き添い、抱えて階段を上り、家に送り届けてくれた。翌日、家にうかがった時には、もうずいぶん弱っておられ、最期の時であることは分かった。しかし、牧師が来ましたよと声をかけると、嬉しそうだった。一緒に讃美歌を歌い、お祈りをし、また讃美歌を歌う。もう話すことも出来ないその状況の中で、口はアーメンと動かし、そして驚くことに愛唱讃美歌の一節に口を動かし歌われた。こんなことがあるのかと驚かされた。そして、集まった家族一人一人に、体をさすられ、見守られ、そして上を見上げつつ、静かに、静かに神様の御許へと帰られた。そして私たちは「復活の時、また再会しましょう」、そう約束した。

信仰の奥義
 人は誰でも死ぬ。死に恐れおののき、寂しさにいたたまれない思いをする。そして残された者は、愛する者と一緒に死ぬことは許されず、残酷なことだが、この世をそれでも生きていかなければならない。

 Mさんは全てを知っていたようで、「この年のどこかでさよならです」と言われた。そして「キリスト教の本質を知ったんだよ、キリスト教がわかったんだよ」と語られた。それは、御子がこの世に来られたこと、十字架につかれたこと、復活されたこと。弱さの中に、人にとっての大切なこと、真の命が示されるのだろうか。それは信仰の奥義であり、それは「救われ、神の恵みを知る者とされる」こと。

信仰と希望と愛
「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」、Mさんが好きな聖句。

《信仰》
 残酷の極みである十字架。しかしこの十字架を通して神の救いは、具体的に、我々の現実の世界へと移される。十字架は、神が不在だと思われるところに立てられ、さらにこの衝撃的な出来事の第一の原因は「わたし」である。故にその十字架を礼拝することは、この世の現実を、我々がイエスの死を具体的に身に負って生きること。十字架は単なるシンボルではない。神が御自身を、私のために、あなたのために差し出して下さったこと。それはイエス・キリストがこの苦しみに突入してきて、同じようにこの痛みをもがき、うめき、共に苦しまれること。人は完全ではなく、誰も痛み悲しみを負わずに生きることはできない。それが土の器の人間であり、被造物だということ。しかし、そのような空しい者が御子の十字架を通して、希望を与えられる。それは生きていくための約束、真に生きることにおける役割。人は、これがなければ本当に生きていくことはできない。だから十字架は、人の力や思いを遥かに超えた、神の創造の恵みに結びついている。だからキリストの死に合わせられることは、キリストの復活に合わせられること。だから我々は、生きる希望を持つ。

《希望》
 それは単なるまやかしや現実逃避ではない。それは確かに我々に、信じがたいことが起こったのだということを自覚させる。人はいわば二つの世界に生きている。人は何が善で、何が尊いのかを知っているし、願い求めている。しかし、人間はやはり、残酷な現実に生きている。貧困と暴力と悪意と、病と差別が支配する。しかし使徒パウロは四方から苦しめられる世界に生きると同時に、見えない神の国に生きている。そしてこの見えない世界から、目に見える世界の苦難に打ち勝つ力を得ている。それは、あらゆる困難と苦しみにあって、神を思い、他者を大切にする心を持つこと、忍耐をもって歩み寄ることを続けること。人はこの目に見える世界で、目に見えない世界と共に、必ず生きていける。復活は、キリストがどうよみがえったのかを科学的に証明する話ではなく、この喜ばしい知らせに触れた私たちがどう生きるのかという問題だ。復活の主は今も生きておられる。それを信じるならば、Mさんは、主が私の内に生きて下さるように、私の中に生きている。だから我々はまだしなければならないことがある。それは「それでもまた人を愛していく」こと。たとえ、あなたが絶望の中にあっても、この希望を決して失うことはない。それが、主はよみがえられたということの本質。

《愛》
 人に愛されることを知り、そしてそれでも人を愛そうとしたMさんは実に満足そうだった。人は人生で、いろいろな人との出会いを与えられ、その中で神の愛を垣間見、教えられていくのだと、伝えてくれた。Mさんは「社会福祉の意味を再認識させられました。イエスは裏通りの、健康でなく、汚れた者が置かれている部分に入っていかれました。イエスの救いは、我々の習慣・決まり・常識を破った行為です。我々が持つ弱い者という認識は危険です。そこには、自分は強い者であるというおごりがあり、その気持ちは相手にすぐに伝わります」と言っていた。

伝えられ約束すること
 決して完全ではない我々、いやむしろ欠け多い土の器に過ぎない我々。しかし、神はその恵みの奥義を通して、つまりキリストの十字架と復活の信仰と希望を通して、その土の器に神の愛を注いで下さる。多くの人の交わりを通して、神の愛は、Mさんになみなみと、あふれんばかりに注がれた。そして「救われ、神の恵みを知る者」とされた。
 だから、Mさんが伝えてくれた信仰の奥義は、また、我々を通して隣人に受け継がれ、確かな希望として永遠に残り続ける。だから、私たちはまた約束する。「復活の時、また再会しましょう」と。(洛陽教会牧師)


それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙一13章13節

2022年4月22日

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

2面の宣教委員会 2段5行目「5月」を「4月」に、
3面の教区総会開催予定、中部教区日程「5/2」を「5/24」にお詫びして訂正いたします。

 

 

 

2022年4月21日

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

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