兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。
「彼のことを告げられていなかった人々が見、
聞かなかった人々が悟るであろう」
と書いてあるとおりです。
「クリスマスに、あなたへ」
聖書個所:「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
ルカによる福音書 2章1~7節
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和泉短期大学
チャプレン 和寺悠佳
クリスマスおめでとうございます。和泉短期大学チャプレンの和寺悠佳と申します。聖書が語るクリスマスのメッセージに、ご一緒に耳を傾けたいと思います。
クリスマスを迎えます。クリスマスが近づくと、街中のあちらこちらにクリスマスツリーが飾られ、イルミネーションに光がともり、わくわくした気持ちになります。嬉しい季節です。一方で、まぶしいクリスマスの飾りを前に、寂しい気持ちになる、クリスマスは自分とは関係ない世界の出来事だと感じてしまうという人もいるでしょう。
クリスマスの時期に私たちは色々な思いを抱きます。クリスマスを嬉しく思う、喜ぶ人もいれば、クリスマスに寂しさや辛さが募って感じるという人もいます。ですが、クリスマスは、全ての人のためにあります。どんな人にもクリスマスは来ます。どんな人に対しても、クリスマスは意味があります。
クリスマス、それは、神様が私たちと同じ人間になって、人間の赤ちゃんとして生まれてくださったことを覚えるときです。
神様と聞くと、どのような方だと思われるでしょうか。神様とは、人間を遥かに超えた存在。人間とは全く異なる存在。だから、私たちとはかけ離れた、遠い遠い存在。神様に対して、このようなイメージがあるかも知れません。
確かに、神様は、私たちを遥かに超えた方です。私たちは何をしても神様を超えることはできません。神様と私たちとの間には、絶対に越えられない違いがあります。それは、神様が私たちを造ってくださったということです。私たちの命は、私たちが頑張って努力して獲得したものではありません。神様が与えてくださった命です。私たちを生かすために、神様は私たちを造ってくださいました。
神様は、私たちを造ってくださって、そしてあとは、「自分で頑張って生きてね」と言って、ただ遠くから見ているのではありません。そうではなく、神様は、私たちを愛し、大切にし、私たちと共に歩みたいと強く、強く願っていてくださいます。私たちと共に生きたいと思ってくださり、神様のほうから私たちのところに来てくださいました。これがクリスマスです。
クリスマスに、神様は、御自分の御子を私たちと同じ人間として送ってくださいました。こうして、イエス・キリストがお生まれになりました。イエス・キリストは、人間として歩んでくださって、人生の喜びも楽しみも、苦しみも悩みも悲しみも困難も、すべて経験してくださいました。ただ観察して知っていることと、自分で経験して知ったこととでは、大きな違いがあります。経験したことは、より深く分かります。私たちが味わうあらゆる事柄を、神様ご自身も経験してくださったので、神様は私たちのことを本当によくご存知でいてくださいます。
神様が、人間になってクリスマスに生まれてくださったのは、単に私たちのことを理解するためだけではありません。神様は、私たち人間の罪を赦すために、私たちを罪から救うために、人間になってくださいました。聖書が言う罪とは、神様以外のものが大切になり、神様から離れてしまうことです。罪には罰が伴います。キリスト教のシンボルのように思われている十字架は、刑罰の道具でした。この十字架には、神様から離れるという罪を持った私たちが架からなければならなかったはずです。けれども、神様は私たちの代わりに、イエス・キリストを十字架にお架けになったのです。神様は、私たちが十字架に架かることを悲しんで、私たちの身代わりとしてイエス・キリストを十字架に架けることにされたのです。
イエス・キリストが、私たちに代わって十字架に架かってくださいました。そうやって私たちの罪を赦してくださいました。罪から救ってくださいました。私たちの救い主になってくださいました。神様から離れてしまうという罪が赦されたので、私たちは神様から離れず、神様と共に居られるようになりました。私たちが神様と共に生きるために、神様は人間になってくださいました。神様は、私たちのためにそこまでしてくださいました。
神様は私たちと同じ人間になって、私たちの身代わりになってくださるほどに、私たちを大切にし、愛してくださっています。クリスマスは、その神様のお姿を私たちに伝えてくれます。
クリスマスの日、人間となってくださった神様がどんな風にして生まれたのか、聖書に記されています。「皇帝アウグストゥス」の時代、「キリニウスがシリア州の総督であったとき」の出来事。イエス・キリストは、確かに人類の歴史の中に誕生してくださいました。
イエス・キリストがお生まれになったときには、「住民登録」が行なわれていました。イエス・キリストの母マリアは、パートナーのヨセフと一緒に「住民登録」をするために、故郷の町へ向かう旅をしていました。「住民登録」という、人間の日常生活の出来事が営まれている中で、イエス・キリストがお生まれになりました。イエス・キリストは、私たちの日常の中へ、生まれてきてくださったのです。
生まれたばかりのイエス・キリストは、「飼い葉桶」の中に寝かされました。それは「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」。宿屋に泊まれず、「飼い葉桶」のあるところ、例えば家畜小屋のような場所で、イエス・キリストは生まれたのでしょう。生まれたばかりの赤ちゃんが寝かされるには、居心地の良いところではありません。大勢の人間が生活している世界の片隅、ほとんど誰にも注目されることなく、暖かい部屋のやわらかい布団の中に寝かされたのではなく、宿屋に居場所がなく、「飼い葉桶」に赤ちゃんが、それも神様の御子であるイエス・キリストが寝かされている。これが、クリスマスの風景です。
イエス・キリストは、神様です。それなのに、「泊まる場所」がなく、「飼い葉桶」に寝かされるしかなかったとは、神様には相応しくない生まれ方です。しかし、これこそが聖書が伝える神様のお姿なのです。私たちを愛し、大切にしてくださる神様の思いが表れた、生まれ方なのです。
「泊まる場所がなかった」。いま、自分の居場所がないと思っている人もいるでしょう。そういう人と同じように、イエス・キリストは居場所のない中で生まれてくださいました。
「飼い葉桶」とは、家畜のえさを入れておく入れ物です。生まれたばかりの赤ちゃんが寝かされるに適した清潔なものではないでしょう。そういう場所に、イエス・キリストは来てくださいました。「飼い葉桶」は清潔さが必要な赤ちゃんに相応しいものではありませんが、私たち自身も清潔、綺麗、清い存在だとは言えません。私たちは、自分の内に、清潔でも綺麗でもない面を持っています。ですから、「飼い葉桶」とは、私たちのことだと言ってもよいでしょう。そうです、イエス・キリストは私たちのもとで生まれてくださいました。神様は確かに私たちのところへと来てくださいました。
クリスマス。それは、神様がどんな方であるのかが、はっきりと示されるときです。
神様が、私たちのために人間になってくださった。居場所がなくて、クリスマスに寂しさや辛さを感じる人と同じ思いを味わって、そのような人のためにも生まれてくださった。「飼い葉桶」のような、決して綺麗、清いとは言えない私たちのところに来てくださった。私たちの救い主になるために生まれてくださった。これがクリスマスに起こったことです。
私たちを愛し、私たちと共に歩むことを願い、そのために私たちの救い主であるイエス・キリストをお送りくださった神様。クリスマスは、その神様に出会うときです。神様の愛が、あなたに向けられています。神様の愛というクリスマスプレゼントを、お一人お一人が受け取られますように。アーメン
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。
「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、
あなたの名をほめ歌おう」
と書いてあるとおりです。また、
「異邦人よ、主の民と共に喜べ」
と言われ、更に、
「すべての異邦人よ、主をたたえよ。
すべての民は主を賛美せよ」
と言われています。また、イザヤはこう言っています。
「エッサイの根から芽が現れ、
異邦人を治めるために立ち上がる。
異邦人は彼に望みをかける。」
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

使徒信条はイエスが「処女マリアより生れ〔た〕」(natus ex Maria Virgine)と告白していますが、その基になっているのは福音書のクリスマス物語です。ギリシャ・ローマ世界には英雄が神と人間の女性との間から生まれたとする神話が存在します。最も有名なのは初代ローマ皇帝アウグストゥスですが、そこには処女降誕のモティーフはありません。処女降誕はイエスこそが「救世主」と呼ばれたアウグストゥスを凌ぐ真の「救い主」にほかならないことをヘレニズム・ローマ世界に伝えるために生み出されたのです。しかし、マリアのクリスマスに思いを馳せるとき、聖書が真に伝えているのは、後の教会が強調した「処女性」や「母性」の象徴としてのマリアではなく、「マリア讃歌」(ルカ福音書1章46−55節)においてこの世の価値観の転換を宣言する自由と解放を求めるマリアだと言えるのではないでしょうか。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一)
※クリスマス物語については、以下の拙論を参照してくださると幸いです。
(1)「マリアのクリスマスの回復――文化研究批評(ジェンダー・セクシュアリティ研究)による解釈」『福音と世界』新教出版社、2016年12月号、30−35頁。
(2)「クィアな聖家族――ルカ降誕物語のクィアな読解」『福音と世界』新教出版社、2021年12月号、30−35頁。
マリア讃歌(ルカによる福音書1章46-55節)
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
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