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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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イザヤ書63・15~64・4

2023年1月4日
どうか、天から見下ろし
輝かしく聖なる宮から御覧ください。
どこにあるのですか
あなたの熱情と力強い御業は。
あなたのたぎる思いと憐れみは
抑えられていて、わたしに示されません。
あなたはわたしたちの父です。
アブラハムがわたしたちを見知らず
イスラエルがわたしたちを認めなくても
主よ、あなたはわたしたちの父です。
「わたしたちの贖い主」
これは永遠の昔からあなたの御名です。
なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを
あなたの道から迷い出させ
わたしたちの心をかたくなにして
あなたを畏れないようにされるのですか。
立ち帰ってください、あなたの僕たちのために
あなたの嗣業である部族のために。
あなたの聖なる民が
継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。
間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。
あなたの統治を受けられなくなってから
あなたの御名で呼ばれない者となってから
わたしたちは久しい時を過ごしています。
どうか、天を裂いて降ってください。
御前に山々が揺れ動くように。

柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように
あなたの御名が敵に示されれば
国々は御前に震える。
期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば
あなたの御前に山々は揺れ動く。
あなたを待つ者に計らってくださる方は
神よ、あなたのほかにはありません。
昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も
目に見た者もありません。
喜んで正しいことを行い
あなたは迎えてくださいます。
あなたは憤られました
わたしたちが罪を犯したからです。
しかし、あなたの御業によって
わたしたちはとこしえに救われます。

2023年1月3日
わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を
主がわたしたちに賜ったすべてのことを
主がイスラエルの家に賜った多くの恵み
憐れみと豊かな慈しみを。
主は言われた
彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。
そして主は彼らの救い主となられた。
彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
御前に仕える御使いによって彼らを救い
愛と憐れみをもって彼らを贖い
昔から常に
彼らを負い、彼らを担ってくださった。
しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。
主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。

そのとき、主の民は思い起こした
昔の日々を、モーセを。
どこにおられるのか
その群れを飼う者を海から導き出された方は。
どこにおられるのか
聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。
主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ
民の前で海を二つに分け
とこしえの名声を得られた。
主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが
彼らは荒れ野を行く馬のように
つまずくこともなかった。
谷間に下りて行く家畜のように
主の霊は彼らを憩わせられた。
このようにあなたは御自分の民を導き
輝く名声を得られた。

2023年1月2日
「エドムから来るのは誰か。
ボツラから赤い衣をまとって来るのは。
その装いは威光に輝き
勢い余って身を倒しているのは。」
「わたしは勝利を告げ
大いなる救いをもたらすもの。」
「なぜ、あなたの装いは赤く染まり
衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。
諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。
わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ
憤りをもって彼らを踏み砕いた。
それゆえ、わたしの衣は血を浴び
わたしは着物を汚した。」
わたしが心に定めた報復の日
わたしの贖いの年が来たので
わたしは見回したが、助ける者はなく
驚くほど、支える者はいなかった。
わたしの救いはわたしの腕により
わたしを支えたのはわたしの憤りだ。
わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり
わたしの憤りをもって彼らを酔わせ
彼らの血を大地に流れさせた。
2023年1月1日
 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」

 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

「誰かを覚えて祈る」

聖書個所:「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
マルコによる福音書1章35~39節

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日本基督教団 荒尾教会
牧師 佐藤真史

◯はじめに
 2023年、誰かを覚えて祈ることを始めてみませんか?
 熊本にある荒尾教会で牧師をしている佐藤真史と申します。突然の呼びかけに驚いた方もいたかもしれません。
 いま初詣のシーズンですが、祈願の内容の多くは「家内安全」や「健康」だそうです。それもとても大切なことです。けれども今日は、自分のためにだけ祈るのではなく、誰かを覚えて祈ることを、皆さんに提案したいのです。
 なぜなら、誰かを覚えて祈る時、その祈りを神さまは不思議な形で、そして必ず聞き届けてくれると信じているからです。
 2000年前、ガリラヤという田舎で生きたイエスは、誰よりもそのことを信じていました。だからこそ、イエスは明け方早く、たった一人で人のために、隣人のために祈ったのです。

◯奥田先生の祈り
 個人的な話しになるのですが、わたしは大学で数学を学びました。そしてその学びを深めるために、札幌の大学院に入った時のことです。ある未解決の問題を解こうとしても、何をどうしていったらいいのか、分からなくなってしまいました。そこからがとっても苦しかったんです。何とか結果につなげるために、学びを重ね、その度に先生から学びが遅いと言われました。かと言って具体的な方向性を見つける事も出来ませんでした。真っ暗な山の中で道を見失ってしまった、そんな気持ちでした。まわりの「出来る」同級生たちが、どんどん進んでいく中で、自分だけが取り残されていきました。
 まったく出来ない自分に苦しみ、自分が生きている価値をも分からなくなってしまいました。いま振り返れば、当時のわたしは「出来るか出来ないか」で人の価値を判断してしまっていた事が、よく分かります。「自分は人よりも出来る方だったのに、今は出来ない方に入ってしまった」と苦しんでいたのです。
 そのような「出来ない自分」に対して、何度も自分を「バカ」だと否定しました。正直、祈るという事も出来ず、眠れない日々でした。とても危うい精神状態だったと思います。そんな中、なんとかおしとどまれたのは、高校時代の恩師の祈りに支えられたからです。
 わたしは山形にある基督教独立学園という高校で三年間を過ごしました。全寮制の小さな学校です。そこを卒業し、いざ学園を離れる日の事です。先生の中で当時最も高齢だった、80代だった奥田先生というおばあちゃん先生に、「三年間お世話になりました」と挨拶に行きました。すると、奥田先生はわたしの手をぎゅっと握りしめ、わたしの目をじっと見つめ、「いつも祈っているからな」と言われたのです。とても驚きました。なぜなら、奥田先生は普段、信仰に関わる話しをほとんどされなかったからです。その様な奥田先生が、あえて「祈っているからな」と言ってくれたことは、深く心に刻み込まれました。
 この奥田先生の祈りに、私は支えられました。数学の研究で苦しんでいた時、その苦しみに押しつぶされそうになった時、自分が自分自身を受け入れることが出来なくなった時、何度も何度もこの奥田先生の言葉を思い出しました。こんな私のために、こんなに弱く情けない私のために、奥田先生はいま祈ってくれているではないかと。奥田先生の祈りこそが、私自身のまさしく「命綱」であったのです。
 奥田先生は召されて10年以上が経ちます。不思議なことですが、いまも、確かに祈って下さっていることをはっきりと感じるのです。
 もしかすると皆さんは、他者のために、隣人のために、友のために、自分たちが出来ることなんか限られているし、祈りなんか大して役にも立たないと感じているかもしれません。そして綺麗事だと感じるかもしれません。  でも、不思議な形で、その祈りがその人を励まし、支え、命を生きることへと繋げて下さるのです。
 イエスも、祈ってから出かけて行きました。人のために、隣人のために、社会のために、平和のために祈ってから、癒やしの業へとでかけていきました。
 この2023年、人のために祈り、そしてその祈りから歩みを始めていきましょう。

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