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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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ミカ書4 ・1~5

2023年2月2日
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。

2023年2月1日

抵抗としての暴力 ——強者の暴力と弱者の暴力——

 非暴力主義を掲げるキリスト教では、イエスがエルサレム神殿で暴れたという事件を「宮清め」と呼んで正当化しています。しかし、いくら誤魔化そうとも、この事件がイエスの暴力沙汰であることに変わりはありません。問題は暴力を一様に否定することで、却って暴力を肯定してしまうという逆説が生じてしまうことにあります。だが、暴力は一様ではありません。強者の暴力と弱者の暴力は同じではないのです。圧倒的な力を持つ強者の暴力と抵抗としての弱者の暴力は正反対の場合すらあります。四福音書が揃って神殿でのイエスの暴力事件を伝えているのは、イエスの暴力がやがて圧倒的な力を持つ権力者の暴力によって十字架刑へと行き着いてしまったという現実を直視しているからにほかなりません。翻って現代社会を見るとき、強者に対する弱者の抗議が暴力やテロとしてラベリングされてしまうことで、強者の暴力が等閑に付されるという逆説が生じている現実に気づかされます。「宮清め」という過激なテクストを再読することを通して、強者の暴力と弱者の暴力という暴力の両義性を再考し、今も各地で起こっている戦争や紛争という名の暴力に抗っていく力にしたいのです。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一

 

マルコによる福音書11章15-19節
 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 そして、人々に教えて言われた。
「こう書いてあるではないか。
『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
わたしは言った。
聞け、ヤコブの頭たち
イスラエルの家の指導者たちよ。
正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。
善を憎み、悪を愛する者
人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。
彼らはわが民の肉を食らい
皮をはぎ取り、骨を解体して
鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く。
今や、彼らが主に助けを叫び求めても
主は答えられない。
そのとき、主は御顔を隠される
彼らの行いが悪いからである。

わが民を迷わす預言者たちに対して
主はこう言われる。
彼らは歯で何かをかんでいる間は
平和を告げるが
その口に何も与えない人には
戦争を宣言する。
それゆえ、お前たちには夜が臨んでも
幻はなく
暗闇が臨んでも、託宣は与えられない。
預言者たちには、太陽が沈んで昼も暗くなる。
先見者はうろたえ
託宣を告げる者は恥をかき
皆、口ひげを覆う。
神が答えられないからだ。
しかし、わたしは力と主の霊
正義と勇気に満ち
ヤコブに咎を
イスラエルに罪を告げる。

聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち
イスラエルの家の指導者たちよ。
正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ
流血をもってシオンを
不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。
頭たちは賄賂を取って裁判をし
祭司たちは代価を取って教え
預言者たちは金を取って託宣を告げる。
しかも主を頼りにして言う。
「主が我らの中におられるではないか
災いが我々に及ぶことはない」と。
それゆえ、お前たちのゆえに
シオンは耕されて畑となり
エルサレムは石塚に変わり
神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる。

「かけがえのない人生を生きる」

聖書個所:「また天国は、ある人が旅に出るとき、そのしもべどもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラントン、ある者には二タラントン、ある者には一タラントンを与えて、旅に出た。 五タラントンを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 二タラントンの者も同様にして、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 だいぶ時がたってから、これらのしもべの主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 すると五タラントンを渡された者が進み出て、ほかの五タラントンをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントンをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントンをもうけました』。 主人は彼に言った、『良い忠実なしもべよ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。二タラントンの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントンをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントンをもうけました』。主人は彼に言った、『良い忠実なしもべよ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。一タラントンを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰なしもべよ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 さあ、そのタラントンをこの者から取りあげて、十タラントンを持っている者にやりなさい。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 この役に立たないしもべを外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。」
マタイによる福音書 25章14~30
 動画はこちらから

日本基督教団高知教会
牧師 黒田若雄

 高知教会牧師の黒田若雄です。
 少し以前になりますが、教会と直接関わりにない方からお電話をいただきました。ご自分の今の大変な状況をお伝えになられ、最後にこう言われました。「自分は人に比べて損な人生を生きている」と。その方の思いは、痛いほど分かります。私も、神様に真の意味で出会うまで、いつも人と比較して、自分のことを考えていたように思うからです。そんな私に、神様は聖書を通して、新しい人生の姿をお示しくださいました。今日は、私が改めて新しく自分の人生の姿を受け取ることになった、イエス様の示された一つのたとえについて、お話ししてみたいと思います。

 たとえは、こんな言葉から始まります。「ある人が旅に出るとき、しもべたちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた。」と。ここでの「タラントン」とは、何を指しているでしょうか。「1タラントン」とは、人が一生働いてようやく手にできるような、莫大な金額です。そうしますと、この「タラントン」とは、その人の人生そのものを指していると言ってよいと思います。ですから、このたとえは、神様から託された人生を、私たちが何を大切にして生きていくのかが示されているたとえなのです。
 さて、主人にタラントンを預けられたしもべたちはどうしたでしょうか。5タラントンと2タラントンを託されたしもべは商売をして、それぞれ倍にしました。一方で、1タラントンを託されたしもべは、土に埋めておきました。大分時がたって、主人が帰ってきました。そして、しもべたちと精算が始まったのです。5タラントンと2タラントンを託されたしもべは、それぞれ倍になったタラントンを差し出しました。主人非常に喜んだのです。それに対して1タラントンを託されたしもべは、土に埋めておいたタラントンを差し出しました。減らすことなく管理できたとしもべは思ったのですが、主人は、大変怒ったのです。主人は、増やすことができなかった結果を怒ったのでしょうか。
 1タラントンを託されたしもべは、なぜ土に埋めておいたのでしょうか。彼は、主人は酷な人で失敗を決して許さないと思ったのです。そして、託されたタラントンを減らしてしまったら大変と思い、その恐れの中で、当時は最も安全な管理の仕方の一つであった土に埋めたのです。それが、1タラントンを託されたしもべの思いでした。しかし、タラントンを託した主人の思いは、全く違っていたのです。主人は、ただ結果が全てと思っておられたのではありませんでした。 
 タラントンをしもべに託した主人の心がよく伝わってくる言葉があります。最初にある「それぞれの力に応じて」という言葉です。主人は、しもべたちの姿をずっと見てきました。そして、このしもべなら5タラントンちゃんと用いていくことができる、このしもべ2タラントン用いることができる、このしもべ1タラントン用いることができる、その思いからそれぞれのタラントンを委ねたのです。つまり、主人は査定するような思いでしもべの歩みの結果を見ようとしているのではなく、このタラントンで一体何をするだろうか、きっとこのしもべならこのタラントンを用いていくことができる、大きな期待を思って見つめているのです。1タラントンを託されたしもべは、期待を持って自分にタラントンを託した主人の心に、気がついていなかったのです。
 私たちの人生は、このタラントンにたとえられています。私たち一人一人は、それぞれにかけがえのないタラントンである人生を、神様から託されています。けれども、思わされるのです。みんな同じものが託されているならば、よいと思います。しかし、当然ながら、私たちの人生の姿は、それぞれに違いがあります。たとえでしもべに託されているタラントンが違うようにです。自分よりもはるかに恵まれた人生を歩んでいるように思える人がいる。それに対して、自分に与えられた人生は、なぜこのような姿であるかと思うこともあるのではないかと思います。その時に、私の人生はとてもちっぽけなものに見えてくるのです。あの人のような人生を歩むことができればどんなに良いか。神様は不公平ではないかと。
 しかし、イエス様はこのたとえを通して示されているのです。神様は本当に不公平なのか、と。「私」に託された「私」の人生は、私たちのことを本当によく知ってくださっている主人である神様が、「力に応じて」、つまり、私に最も相応しい人生として託してくださったものだからです。そうして、私たちのことをよく知っておられる方ですから、神様としての見通しがあるのです。必ず歩んでいける、と。勿論、自分の人生を生きることには、さまざまな困難や課題があります。けれども、その困難や課題を担うからこそ知ることが出来る恵みがあるのです。託された「私」の人生を歩んでしか得られない喜びが必ずあるのです。神様は、そういう期待を持って、私たちにそれぞれの人生を託してくださったのです。人生の姿の違いは、私たちに対する神様の大きな期待なのです。

 関わりのある教会の方に、このような歩みをされた方がおられます。その方は、小学校の時に、お母さんが病気で亡くなられ、とてもつらい思いの中を歩まれたそうです。そして、ずっと孤独だという思いを抱えながら学生時代を過ごされていました。今でいう大学生の時、たまたま出会った友人が、クリスチャンだったこともあり、教会の礼拝に出席されるようになりました。そして、神様に出会い、生涯神様と共に歩まれることになりました。その方は今、高齢となっておられますが、自分の人生を振り返って、辛いこと悲しいことがいっぱいあったけれども、神様に出会うことが出来た、そういう感謝な人生だったと、おっしゃっておられます。
 神様は、それぞれに違った人生を託されました。そして、その人生を歩んでいくことを通して、あなたはきっと素晴らしいものを受け取っていくはずだ、神様はそう思っておられるのです。
 失敗したら大変と縮こまるのでもなく、人と比較することでもなく、神様が与えてくださった自分の人生を、精一杯生きさせていただくのです。そこに、かけがえのない人生を、あなたに託してくださった神様の心からの願いがあるからです。

2023年1月31日

 ほぼ3年間にわたるコロナ禍により、性被害、暴力、虐待などの苦しさを抱える女性たちの孤立が、さらに深まっています。そうした女性たちは社会の隅に追いやられ可視化されくく、福祉にもなかなか繋がれません。その過程で、命を落としてしまう方々もいらっしゃいます。一人でも多く、大切な命を守りぬき、自己肯定感や自尊心を回復する支援を届けること。このことが、女性支援に携わる私たちに、今求められていることです。

 かにた婦人の村は、1965年の開設以降、困難な事情を抱えた数多くの女性を受け入れてきた、日本で唯一の婦人護長期入所施設です。この度、60周年を前に老朽化した設備を新しくすべく、建て替え費用を募るクラウドファンディングに挑戦いたします。

202441日から、婦人保護施設は「困難を抱える女性の支援に関する法律」という新法のもと「女性自立支援施設」になります。こうした追い風を背景に私たちは、苦しい立場の人々が生きにくい時代に、助けを求める女性が助けられる社会を作りたいと思っています。そのためには、安心安全に暮らせる場所作りが必要です。

皆さまの暖かいご寄付を、よろしくお願いいたします。

クラウドファンディングはこちら→かにた婦人の村 レディーフォー
※かにた婦人の村の活動はクラウドファンディングのページやこちらのページでご覧いただけます。

支援のお願いチラシ(PDF)

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