わたしが再び目を留めて見ると、四両の戦車が二つの山の間から出て来た。その山は青銅の山であった。 最初の戦車には赤毛の馬数頭、二番目の戦車には黒い馬数頭、 三番目の戦車には白い馬数頭、四番目の戦車にはまだらの強い馬数頭がつけられていた。 わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに、「主よ、これは何ですか」と尋ねると、 御使いはわたしに言った。「これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである。 その中の黒い馬は北の国に向かって出て行き、白い馬は西の方へ出て行き、まだらの馬は南の国に向かって出て行く。」 強い馬も出て来て、今にも飛び出して地上を行き巡ろうとしていたところ、彼が、「さあ地上を行き巡れ」と命じたので、彼らは地上を行き巡った。 彼はわたしに叫びながら言った。「よく見るがよい。北の国に向かって出て行ったものが、わが霊を北の国にとどまらせた。」
「『罪人』への招き」
聖書個所:イエスは、再び湖のほどりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事されるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マルコによる福音書2章13~17節
日本基督教団 西片町教会
牧師 大久保正禎
今からちょうど百年前の1923年9月1日、正午直前、関東南部一帯を巨大な地震が襲いました。地震に続いて「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」「爆弾を投げ、暴動・反乱を起こしている」といった流言蜚語が流布し、関東一円で警察や軍隊、また自警団等による朝鮮人の虐殺が引き起こされました。
当時、朝鮮は日本の植民地支配下にありました。苛酷な植民地支配の下、日本の官憲は自由や独立を求める朝鮮人に「不逞鮮人」というレッテルを貼り、「治安維持」の名の下に激しく弾圧し、多くの命を奪いました。「不逞」とは、「勝手気ままにふるまうこと、あからさまに不満を表すこと」と辞書にあります。やがてこの言葉は一般にも拡がり、朝鮮人とみれば「不逞鮮人」と呼ぶ風潮が拡がっていきました。この言葉が、官憲の朝鮮人弾圧政策と一般市民の朝鮮人に対する警戒心や恐怖心を結び合わせ、官民挙げての朝鮮人虐殺を引き起こしていったのです。
マルコによる福音書2章13節以下の場面で、イエス様はカファルナウムの町の収税所にいた徴税人レビに「わたしに従いなさい」と呼びかけます。徴税人は権力者の徴税の実務を請け負い、権力者への納税額以上に徴収して、余分に徴収した分を自分の収入にしていました。そのためにユダヤ教の教師や律法学者たちからは「罪人」「泥棒」などと呼ばれて忌み嫌われていたのです。そんな「罪人」「汚れた者」として疎んじられていた徴税人にイエス様は声を掛けたのでした。「わたしに従いなさい」と。
この声にレビは立ち上がって「イエスに従った」とあります。「イエスに従う」という言葉はマルコによる福音書では特別な意味の込められた言葉です。単にイエスの後についていくというだけでなく、イエスの宣教を受けとめて、イエスと同じ生き方をしていこうと志すことを、マルコによる福音書は「イエスに従う」と呼んでいます。
イエス様はレビの家で大勢の人々と食事を共にしました。食事を共にすること。それは、食べなければ生きていかれないという、人の命の持つ「弱さ」を、不都合なものとして排除するのではなく、互いに受けとめ合い、支え合って共に生きていくことです。そういうしかたでレビたちは「イエスに従う生き方」へと踏み出していたのです。
ところがファリサイ派の律法学者たちはそれを見とがめて、弟子たちに問いただしました。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。彼らにとって、徴税人や罪人と一緒に食事をすることは、「汚れたものに触れるな」と教える律法の掟を破り、社会の「治安」を乱す行為と映ったのでした。彼らは「汚れた罪人」とレッテルを貼られた者たちを排除し、葬り去ることが、社会の「治安」を維持することであり、それが「神の御心」だと論じていました。
イエス様はそんな社会のありかた・見方をひっくり返します。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。こう宣べてイエス様は、人に「不逞」「汚れ」「罪」「悪」というレッテルを貼って排除することで成り立つ社会のありかたをひっくり返したのです。ひっくり返すことはほんとうの姿を明らかにすること。この世のほんとうの姿は、神様が人に向かって「園のどの木からも取って食べなさい」と、そうしてどの命も「自分の命を生かしなさい」「生きなさい」と、呼びかけられた世界です。あなたがたが「汚れた者」「罪人」とレッテルを貼った人たちは、お互いの命の弱さを受けとめ合い、守り合い支え合って、このほんとうの世界の姿に従って生きているではないか。間違い、歪んでいるのは、「治安維持」の名の下に、その命を排除し葬り去ろうとするあなたがたの方ではないかとイエス様は問いかけたのです。
「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」。けれども、病人である者、病んでいる者、医者を必要としているのは、徴税人や罪人と呼ばれる人たちではなくむしろ、彼らを追い立て葬り去ろうとする律法学者たちのほうではないだろうか。そのようにして、人の命を襲い、傷つけ、奪い取ることで暴力に満たされた歪んだ社会を築こうとしている者たちのほうが医者を必要とする病人なのじゃないだろうか。この病んだ社会をいやすために、イエス様は「罪人」と呼ばれた人々を招き、「わたしに従いなさい」と、神様によって創られたこの世のほんとうの姿に従って生きるあり方へと呼びかけたのです。そして、今、同じように病み歪んだ世に生きるわたしたちをも、イエス様はこの、互いの命の弱さを受けとめ合い、守り合い、支え合う「罪人」の交わりへと招いておられるのです。
在日朝鮮人二世の作家高史明さんが、1932年に山口県下関で生まれ、1945年の日本の敗戦に至るまでのご自身の生い立ちを綴った作品『生きることの意味』。その物語の最後近く、日本が戦争に敗れた時、父親が息子に向かってこう語りかけます。「日本人は、朝鮮が困っているとき、助けてくれようとしなかった。じゃが、いまは、日本が困難にみまわれているときじゃろ。これまでの日本人と同じことをしては、なんにもなるまい。他人のうらみを買うことをしたら、あとできっとそれはわが身に返ってくることになるんじゃ。困っているときは、だれとでも助け合うのが、人のとる道じゃろ。この人の道を踏みはずしたら、朝鮮の解放もありゃせん。解放されたというからには、困っている人を助けてこそ、ほんとうの解放というもんになるのじゃないか」。
この時、日本人は、かつて自らが「不逞」と呼びつけた朝鮮人によって、招かれていたことを、知らされました。けれども、戦後の日本社会・日本人の歩みは、この招きに応えることなく、それを打ち払い、かえって朝鮮人を追い立て、葬り去ろうとする歩みでありました。そして今も、日本にしか生活基盤が無かったり、出身国で迫害の危険があったりするために出国できずに在留資格を失った外国人を、「不法な送還忌避者」として排除し、葬り去ろうとしています。しかし今も、招きの声はわたしたちのもとに届いています。「罪人」と呼ばれた者たちからの、ほんとうの罪人であるわたしたちへの招き。「罪人」の交わりへの招き。「わたしに従いなさい」と、そして「生きなさい」と呼びかけるその招き。どうか、この招きに、硬い心を砕かれて従ってゆく者でありたいと願います。
お祈りしましょう。
すべての命の創り主、命の源なる天の神様。
わたしたちは、すべての命あるものとともに、あなたの喜びの知らせのもとに招かれています。けれどもわたしたちは、自らを真ん中に置き、自分の都合にしたがって人を「汚れ」「罪」「悪」と見定めて排除し、葬り去ろうとしてきました。しかしイエス様は、打ち散らされ、追い立てられ、葬り去られた者をこそ、ほんとうにあなたの御心に適ったものとして招かれます。命の弱さを愛し、共に生きなさいと呼びかけられるあなたの御声が響くこの世のほんとうの姿です。今、再び、そこからわたしたちに呼びかける声をわたしたちは聞きます。「わたしに従いなさい」と響くその声、イエス様の呼びかけ、心砕かれ、心開かれて従う者とならせてください。そうして、あなたの命の糧を、すべての人と分かち合う者とならせてください。
今、この病める世のただ中で、命を傷つけられている人たちを守り、攻撃する人の手を打ち払ってください。どうか、わたしたちが、命を愛し、守り支えるあなたの御業の、新しき、良き器となることができますように。
小さき祈り、わたしたちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

関東大震災の朝鮮人虐殺から100年を覚えて
5さらに、ギレアドはエフライムに通じるヨルダン川の渡し場を占領した。エフライムの逃亡者たちが「渡らせてくれ」と言ってきたとき、ギレアドの男たちが「お前はエフライム人か」と言うと、彼は「違う」と言った。6すると、彼らは彼に「シッボーレト」と言ってみろと言い、彼が「スィッボーレト」と言って正確に発音できないと、彼らは彼を捕らえてヨルダン川の渡し場で虐殺した。こうして、このときエフライムのうちから4万2千人が斃(たお)れた。
(士師記12章5−6節[私訳])
冒頭の引用は2022年9月1日に日本基督教団HPにアップされた金迅野牧師(在日大韓基督教会横須賀教会)のメッセージ「『関所』で新しい『われわれ』を紡ぐ」が用いている聖書箇所の一節です。このメッセージおいて、金牧師は関東大震災で「朝鮮人が井戸に毒をまいている」といったデマが流れ、戒厳令が敷かれたとき、語頭に濁音が立たない朝鮮語の特徴を利用して、軍隊や自警団が朝鮮人を見つけ出すために、「15円50銭(じゅうごえん・ごじゅっせん)」と言ってみろと言い、「ちゅうこえん・こじゅっせん」と正確に発音できない人を虐殺した歴史に触れています。
士師記12章5−6節は紛争を制したギレアド人がエフライム人を殲滅するために、エフライム人がשׁ(sh)の発音ができずにס(s)と発音することを利用して、渡し場に来た者に「シッボーレト」(שִׁבֹּלֶת)という言葉を正確に発音できるかどうかを確認し、「スィッボーレト」(סִבֹּ֗לֶת)と発音するや否や虐殺したという物語です。ヘブライ語のシッボーレトは「穀物の茎」や「水流」を意味しますが、ここでは単にשׁ(sh)を発音できないエフライム人を罠に嵌めるためだけに持ち出されています。
この士師記の故事から、ある社会集団の成員と非成員を選別して排除する指標として用いられるフレーズや合言葉を意味する「シボレート」(シボレス)の概念が生み出されました。そして、日本でシボレートが用いられた代表的な事件こそが、先に紹介した金牧師が触れている今年100年を迎える関東大震災における朝鮮人虐殺にほかなりません。このようにシボレートとは特定の氏族や民族に対する憎悪から生み出され、士師記の「シッボーレト」や関東大震災の「15円50銭」という何気ない言葉が生と死の境を決定してしまったのです。関東大震災の朝鮮人虐殺から100年を覚えて、その歴史すらなきものにしようとする時代に抗して、「15円50銭」というシボレートによる朝鮮人虐殺という加害の歴史を忘れないとの思いを新たにします。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一)
わたしが再び目を留めて見ると、一つの巻物が飛んでいた。 御使いがわたしに、「何を見ているのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「巻物が飛んでいるのが見えます。その長さは二十アンマ、幅は十アンマです。」 彼はわたしに言った。「これは全地に向かって出て行く呪いである。すべての盗人はその一方の面に記されている呪いに従って一掃される。また偽って誓う者も、他の面の呪いに従って一掃される。」
わたしがこれを送り出す、と万軍の主は言われる。
それは盗人の家に
わが名によって偽りの誓いをする者の家に入り
その家の中に宿り
梁も石ももろともに滅ぼし尽くす。
わたしに語りかけた御使いが現れ、わたしに言った。「目を留めて、そこに出て来るものが何であるか、よく見るがよい。」 わたしが、「それは何ですか」と尋ねると、彼は、「そこに出て来たのはエファ升である」と答え、「それは全地を見る彼らの目である」と言った。 鉛の円盤が取り除かれると、エファ升の中に一人の女が座っていた。 彼は、「それは邪悪そのものである」と言って、かの女をエファ升の中に投げ返し、エファ升の口に鉛の重しを置いた。 わたしが目を留めて見ると、二人の女が翼に風を受けて出て来た。かの女たちはこうのとりの翼のような翼を持ち、地と天の間でエファ升を運び去ろうとしていた。 わたしに語りかけた御使いに、「かの女たちはどこにエファ升を持って行こうとしているのですか」と尋ねると、 彼はわたしに答えた。「かの女のため、シンアルの地に神殿を築こうとしているのだ。神殿が整えられると、その地に備えられた場所に置かれるはずだ。」
わたしに語りかけた御使いが戻って来て、わたしを起こした。わたしは眠りから揺り起こされた者のようであった。 彼はわたしに、「何を見ていたのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。 その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」 わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに言った。「主よ、これは何でしょうか。」 わたしに語りかけた御使いは答えて、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしが「主よ、分かりません」と言うと、 彼は答えて、わたしに言った。
「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。
武力によらず、権力によらず
ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。
大いなる山よ、お前は何者か
ゼルバベルの前では平らにされる。
彼が親石を取り出せば
見事、見事と叫びがあがる。」
また主の言葉がわたしに臨んだ。
「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。
彼自身の手がそれを完成するであろう。
こうして、あなたは万軍の主がわたしを
あなたたちに遣わされたことを知るようになる。
誰が初めのささやかな日をさげすむのか。
ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て
喜び祝うべきである。
その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」
わたしは言葉をついで御使いに尋ねた。「燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか。」 わたしは重ねて彼に尋ねた。「その二本のオリーブの木の枝先は何ですか。それは二本の金の管によって、そこから油を注ぎ出しています。」 彼がわたしに、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしは「主よ、分かりません」と答えると、 彼は、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」と言った。
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