ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
裁きを受けるとき、勝利を得られる」
と書いてあるとおりです。 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、
彼らは舌で人を欺き、
その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、
足は血を流すのに速く、
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

ガザに平和を
33見よ、眠らずにいなさい。あなたたちはその時がいつなのかを知らないからである34それは土地から離れているある人が自分の家を離れるときに、自分の僕たちに権限を与え、ひとりひとりにそれぞれの仕事を与え、門番に目を覚ましているよう命じるようなものである。35だから、目を覚ましていなさい。あなたたちはその家の主人がいつ来るのか、それが夕方か夜中か鶏が鳴く頃か朝かを知らないからである。36家の主人が突然来て、あなたたちが居眠りしているのを見つけることがないように。37あなたたちにわたしが言っていることを、全ての人たちにわたしは言っているのである。目を覚ましていなさい。(マルコ福音書13章33−37節[私訳])
2023年10月17日にパレスティナのガザにあるアハリー・アラブ病院が爆撃されたというニュースが飛び込んできました。親しい人たちがアハリー・アラブ病院を支援する会を運営しており、そのひとりである友人(本サイトの企画者)から今月の聖書箇所のマルコ福音書13章33−37節が伝えられると同時に、ガザで起きている現実に胸が潰れるとの言葉が送られてきました。冒頭に引用したのは「小黙示」(マルコ福音書13章)と呼ばれる聖書の一節であり、世の終わりがやって来るときに目を覚ましているようにと警告するイエスの言葉です。これは世の終わりを予期しているという意味では、現代世界に生きるわたしたちには非現実的に映ってしまうかもしれませんが、友人が着目したのは37節「あなたたちにわたしが言っていることを、全ての人たちにわたしは言っているのである。目を覚ましていなさい」という言葉です。ガザの人たちは現実に安心して居眠りなどすることのできない状況に置かれていることをわたしたちは知らされています。それは小黙示が伝える終末の戦争を彷彿とさせます。イエスの言葉はパレスティナとイスラエルにだけに向けられているのではなく、わたしたち「全ての人たち」に「見よ、眠らずにいなさい/目を覚ましていなさい」と告げているのです。それは戦争のためにではなく、平和のためにです。ガザに平和をとの願いを込めて、アハリー・アラブ病院を覚えて支援の輪を広げたいとの思いでいます。(小林昭博/酪農学園大学教授・宗教主任、デザイン宗利淳一)
※アハリー・アラブ病院は1882年に聖公会が設立し、1954年に南部バプテスト連盟が運営を引き継ぎ、1980年代初期に聖公会に運営が戻され、現在は聖公会のエルサレム管区が運営しています。日本では「アハリー・アラブ病院を支援する会」が支援活動を行っています。
※パレスティナ問題はバイアスのかかった報道が多いため、正確な情報を知ることがとても大切になってきます。大学の授業でパレスティナ問題を扱うときには、以下のウェブサイトを学生と一緒に確認しています。このサイトによれば、ガザの医療施設の攻撃はすでに50件を超えており、アハリー・アラブ病院の爆撃も報じられています。
If Americans Knew(https://ifamericansknew.org/)
「役に立つってなんだ」
聖書個所:「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
マルコによる福音書10章13〜16節
京葉中部教会
牧師 伊勢 希
2016年7月26日、神奈川県である事件が起きました。皆さん、未だ記憶に新しいと思いますが、神奈川県立の知的障害者福祉施設である「津久井やまゆり園」にて元職員が刃物を所持し侵入。19人もの命を奪い、26人に重軽傷を負わせた事件です。この事件の報道を最初に見た時の衝撃を今でも覚えていますが、それよりも私が記憶にあるのは、この事件を起こした植松さんが障害を抱えておられる方々にはなった発言でした。
北九州で野宿される方々への支援や生活困窮者支援をされている奥田ともし牧師は、植松さんの真意を聞こうと拘置所で接見した一人です。
二人の会話の一部を紹介します。奥田牧師「重度障害者は役に立たないと?」この問いに植松さん「そうです、人間じゃない」では君は事件の前、どうだったの?と畳み掛けると「いや、あまり役に立たない人でした。役に立つ人間になりたいと思っていた」。
奥田牧師はこれらの会話により「彼も世間から役に立つかどうかを問われつづけ、自分の価値を示す為に自分より「役に立たない」ものを消すことを選んだのではないか」。このように振り返っておられます。
改めて考えたいのです。役に立つって何なのでしょうか。誤解がないように言っておきたいのですが、私は役に立ちたいという思いを否定しているわけではありません。私も役位に立ちたいという思いを持っている一人の人間です。もっというなら、役に立てたと思っていても、ありがとうを言われなかったら、え。っと思ってしまいますし、ありがとうと言われるのを期待してしまう人間でもあります。
私が言いたいことは、役に立つとは何であるかの定義づけも曖昧なまま、いつのまにか誰かの社会の役に立たなければいけないのだという価値観、役に立たないと無価値なものだという価値観、そして役に立つものにならなければ、あなたは駄目人間だという恐怖心さえも今この世の中には蔓延してしまっているのではないか、と言うことを問いたいのです。
例えば、ナチス政権が実行したT4作戦や日本では1948年から1996年、役50年もの間施行されてしまった「優生保護法」それらの人間が犯してきた様々な過去の歴史を振り返る時、人間はどうしても目の前の人間が役に立つかどうかの線引きを行ってきた、そしてその中で犠牲になるのは、弱い立場に侵されてしまった人たちだったと言わざるをえません。
常に役に立つかどうか判定される側にいかされ、役に立たない、また役に立たなくなったと思われた瞬間、使い捨てられる。そのような過去があり、そして今もそのような実態が残念ながらあるのです。
今回、選ばせていただいた箇所はイエスが子どもたちを祝福するという、とても暖かな場面を想像することができます。しかし実際は、とてもざわついていたのではないかと思うのです。
当時の価値観では、子どもはとても軽んじられた存在でした。
人間としての価値が認められるのは成人になってから、と考えられており、こどもの人権などなく、全て父親がにぎっていました。
だからこそ、弟子たちはイエスにこどもたちを連れて行こうとする人々を叱ったのです。
けれどもそのような価値観を生きる社会において、イエスは真逆の価値観を示します。子どもたちを私の元へ連れてきなさいといい、そして周りにいる人たちに「子供を受け入れるように」と諭すのです。
子供たちだけではなく、イエスという方はいつも目の前にある命を尊び、大事にされた方なのだ、という記載が福音書にはたくさん出てきます。周りから存在を無視され、価値のないとされる人たちに対し、生きる意味を見出せず苦しんでいる人たち対して、立ち止まり、目を合わせた人です。あなたがここで懸命に生きていることを私は知っていると伝え、生きていることを喜び、価値のないと思われている人たちを切り捨てる当時の価値観を真っ向から否定し戦った人です。
そして役に立つかどうかの線引きなどせず、ただ生きているだけであなたは尊いのだ、大切な命なのだ、と語り。そこにある命を単純に喜び祝福した人、それがイエスという方なのです。
私はこのイエスの姿を見る時、私たちキリスト者が発信しなければ行けないメッセージは、あなたは役に立つ人間だ、安心しなさいというのではなく。そもそもそのような。人を価値ある人間かどうかでみてしまう価値観がおかしいと声を上げることだと思っています。
私たちはすぐに流されてしまいます。
自分の価値を時に他者に求め、認められないと不安になります。
何もできない自分を見つめた時、私自身が存在して良いのかどうかも分からなくなり、自分が嫌になるのです。
でもイエスはそんな私たちがいま、生きていること、そのことをただただ喜ばれる方なんです。私たちはそのイエスからの祝福を今一度思い出し、今ここにいかされる喜びを噛み締めていきたいとおもいます。
互いにここにある命を、目の前にある命を共に尊び合い、祝福しあい、大切にする歩みを重ねていきたいと願います。
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